3 甲斐 志奈乃(かい しなの)
本日3話目
閑章3番目
酷い異臭に顔が自然に歪んで行く。
魔族とよばれる者たちの骸と、騎士たちの遺体が乱雑に置かれていた。
乱戦模様が伺える。
自分たちを襲い来る魔族をなんとか退けたものの、奥へ行けば行くほど凄惨な景色が嫌でも目に入ってきた。
装備させられた防具の効果と、自分たちがこの場所へ召喚されてくる時に埋め込まれた能力が、甲斐志奈乃を奮い立たせていた。普段なら恐れおののいて逃げてもおかしくない状況だった。
見たこともない薄灰色の人型の何かが自分たち目掛けて襲ってくるのだ。恐怖を抱かないはずがなかった。しかしながら自分の中の戦闘知識と装備、スキルやジョブの概念がしっかりと足を地につけている。明らかに自分ではない何かに突き動かされているようだ。
召喚前、彼女は家で食事を作るための買い出しをしているところだった。
複雑な家庭環境といえば、聞こえはいいが、酷いものだった。父親がアルコール中毒で、母親に暴力を振るい始めたから。やめてと叫んだのも数えるのを諦めるほどに多かったし、酔から冷めれば母親に泣きながら謝る始末。
父親のリストラから家庭崩壊が始まっていく恐怖を味わっている最中だった。殴られて泣いていた母親はある時、家を飛び出した。自分を連れて。
向かった先はボクシングジム。
『見返してやる』
母親の逞しさは明後日の方向で開花された。親子で通うジムは協力的だった。顔を腫らした母親を見たジムの会長は最初怪訝な顔をしていた。母親の話を聞き入っている様子だったのに、彼の顔はなぜかイキイキし始めたのはまだ記憶に新しい。
『その意気やよし』
という言葉を今でも鮮明に思い出せる。母親は会長に言った。
『身を守れる技術を』と。
あろう事か母親は父親からの暴力を躱す技術を要求したのだ。何をどうなったら暴力を受けたきっかけで我が子を連れてボクシングジムに通うというのか。最初はさっぱりわからなかった。思考の斜め上を行きすぎていた。
通う度に避ける技術が向上しているのか、父親から殴打される場所には痣が残らなくなっていった。インパクトの瞬間に大げさに吹き飛ばされるフリをしてダメージ軽減を成功させていたのだ。その度に酔の覚める父親。土下座する父親。
類稀な戦闘センスにジムの皆が注目し始めていた。いや、おかしくないか? 志奈乃は流石におかしいと感じ始めていたものの、自分もボクシングに魅了され始めているのを否定できなかった。
会長は志奈乃にもミットを手渡してみた。少しのアドバイスだけでどんどん上達していく親子は汗臭いボクシングジムに華やいだ雰囲気をもたらし、小奇麗になっていったのは志奈乃の感知するところではなかったが。
あまりにも進歩が著しい親子に会長はパンチまで教えに入った。
嫌な予感はたいてい当たる。
母親が父親に対してカウンターパンチを咄嗟に繰り出してしまったのだ。綺麗に決まったクロスカウンターに思わず志奈乃は拍手してしまったが、母親は顔を青ざめさせていた。
父親が酒を控え始め、スーパーのアルバイトを始める。
たった一度のカウンターパンチは家庭を救った。
異世界にいる。
志奈乃は現実感のないこの世界にいることになんの不快感も抱かなかった。むしろ得られた力を試していける環境ではないかとさえ感じ始めている。
『わたしはここで生きていこう』
などと自然と考えが、思考が向いている。誘導されているなどということには一切気付きもしないまま、地下通路の敵たちを殲滅していった。
勇者たちは得られた力を十全に使いこなし、言わば肩慣らしを終えて、地上に戻ってくるのであった。姫と騎士たちを連れて。
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