解答
じめっとした湿気が絵の具の渇きを悪くするのだけれど、タブレットやPCからやっているとそのあたりの感覚はどうしても鈍くなっていく。
それでもいいか、と簡単なものから描きなおしていて。
今は猛スピードで新しい絵を描き上げているところだ。
スマホから必要な情報を割り出し、ついでにそのままラフを仕上げてしまう。
ざっくりでいいからここまでは大した作業でもない。
線は長く細く、複数の線からの絞り出しを手早く。
乗せる色と順番はあらかじめ決めておくのだが、この番号と割り振りを決める速度にガジェットを使っていた事が生きてくる。
色が決まれば後は臨んだ色合いが出てくるかどうかを切れ端とパレットへの比較でざっと塗って出すだけ。
「はやい」
後輩のどちらかが後ろに回ってそんな事をつぶやいていたような気がするけれど、それが二人のうちどちらであるかはわからない。
沙月さんだったような気もするし、もしかしたら教師だったかもしれない。
それでもこれは、思った時に完成しなくては意味がないと真剣に描き上げていたものだった。
僕なりのやり方で、僕だけのけじめでもある。
だからこそ、一切手を止めずにまとまった時間を使って描ききった。
思ったより感覚が腕から離れていなかった事が幸いしたのか。
それともガジェットを普段から使っていたおかげで色の尺度に目が慣れていたことが幸いしたのか。
あるいはどちらもだったかもしれないが、とりあえずその絵は思ったよりは手早く仕上げられた。
布にしろ塗料にしろいつもの環境ではなかったのがあまりよくなかったのか、最初こそ色の乗せ方に苦労したが。
「よし」
それも最初だけの話。
これ以上はつきつめてもというところで手を止めて周りを見る。
教室の外は真っ暗で、自分がいつも座っている机と椅子で作業をしていた教師がため息をついていた。
宿泊願いも何も出してないのだから、説教もさもありなんという事だろう。
さっさと出ろと怒られた挙句学校を叩き出されて帰途に就く。
迷っていたことは自分なりに決着をつけたつもりであるし、これは個人的な願いでしかない。
それでもと思って今回の絵に着手したのだから、初志貫徹できればという想いもあった。
問題はあれをどうやって渡すかではあるのだが、これについては全く何も考えていない。
どうしたもんかと考えながら喫茶店の前まで来て。
「僕じゃダメなのか」
「そういう事じゃない」
困った様子の沙月さんと、なにやら同級生の男子が言い争いをしているのに気づいた。
大きな声に思わず震えて電柱の裏に隠れてしまったが、あれはいったいどういう事か。
言い寄られて困る事件はいくつかあったが、それでここまでの言い合いになっているのは珍しい。
いつもなら沙月さんがやんわり断って、それに脈がないと察した相手が引いていた。
それでも駄目ならだいたい志乃さんに窘められていたが、今日の所は様子が違う。
何かが欠けている違和感に首をひねるままよくよく見てみる。
言い争いをしている青年は、どこで見かけたのだったか。
「なんであんなやつがいいのさ」
さすがにそれが誰を指す言葉であるのかは、十分理解できた。
腹は立つけれど、見覚えはあるのに名前も思い出せない相手に怒るのも違う気がする。
「わかっててあんな態度とってるのに、どうして」
「あのさ」
言いかけた彼をピシャリと遮る一言。
そう大きな声でもなかったはずなのに、遠くにいた僕にも聞こえてきた。
「その言葉を宗司君じゃなくて、私に向けている時点でおかしい事に気が付かない?」
遠目に見ても彼は顔を真っ赤に染めていた。
納得できないといわんばかりの彼に対して、沙月さんは怒るでもなく。
「何があったのかは知らないけれど、私をダシにしないで」
言葉で斬り捨てて喫茶店に戻っていく沙月さんを呆然と見送る彼は、しばらくしてまた顔を真っ赤にして。
帰ろうとして、今度は電柱の裏から顔を出していた僕と目を合わせてしまう。
眼光だけで射殺さんとする彼の態度に驚きはしたものの。
無言で帰っていく青年の後姿を見ていて、違和感の正体に気付く。
喫茶店の評判にも関わるため揉め事は程々の所で止めていた志乃さんが、意図的にこの口喧嘩を放っておいた事がそもそもおかしかったのだと気づいて。
これはきっと志乃さんからの警告だ、とため息をつく。
肩を落としながら喫茶店に入って作業を始めれば、沙月さんが事あるごとにこっちを見ていて。
思った以上の成果だったのか、志乃さんがそれを見て厨房で大笑いしていた。
見透かされてむくれる沙月さんにも視線を向けられて。
その日は眠りにつくまで背中いっぱいに冷や汗をかきながら作業することになった。
後日、作るより送るのに苦心した作品は無事届いたのを確認してくつくつと笑っていたところ。
「やり残しはもうないな」
「十分です」
「なら今後はそういう気配りをもうちょっと上手く使え」
後ろからのぞき込んでいた志乃さんから妙なプレッシャーをかけられつつ、もう一度届いた地方紙のスポーツ面を見やる。
大きくとりあげられたサッカー選手たちの写真のうち、一人だけが首にかけたタオルだけがカラフルで異様に浮いてはいたものの。
写真の真ん中というひときわ目立つ立ち位置で。
彼の笑顔とVサインが、タオル一面にデザインされたライラックやフリージアよりも輝いていたことは確かだろう。




