歔欷
最後の桜を見届けるこの時期ともなるとだいたい湿気でじめついてくるものだが、この時期はまだカラリとした晴れ間が続く。
とはいえ心情までどうかと聞かれればそうでもなく。
「先輩、どうかしましたか」
ケンカ相手がいないからか、特別教室に入ってきた後輩の片割れが飲み物を進めながら尋ねてくる。
「悩み事や抱え事が増えてくると、のしかかってきた分だけ筆が重くなるね」
「そうでしょうか」
頷いてくるかと思った後輩の言葉はそうでもなく。
あっさりと答えたことに驚いて、それが顔に出てしまっていたかもしれない。
後輩君は苦笑していた。
「悩んで悩んで悩みぬいた選択だから、より良いものになるんじゃないですかね」
それが他人の目に留まるかどうかと、評価されるかどうかはまた別問題かもしれませんがとこぼす。
絵を描き続けてほしいけれど、これは私の我が儘だ。
そう割り切っていたはずの先輩ですら、僕が絵を描き続けていたことに安堵していた。
どこまでが他人に影響を及ぼしたのか、どこからが自分の意志なのか。
こうだと思ってはいても、他人から見てどうだろうかとおもうとやっぱりぐらついてしまう。
今は描いた絵をガジェットでバランスを取り直し、手直ししてからネットに投稿している。
やっていることはほぼほぼプロのそれに近く、いろいろと話も貰っていて順調と言えばそうだけれども。
あれから沙月さんとはろくに話をしていない。
仕事をこなす以上喫茶店で最低限の会話はするけれど、どうも踏み入った内容にならずにもやもやしていた。
「彼がいたら『考えすぎて失敗することもある』って言うんだろうね」
黒い水面をじっと見ながら、この部屋を借りているもう一人の後輩を思い浮かべてそう返す。
違いないですと笑われたけれど、どちらが正解であるかは結果が出るまでわからない。
もらったカップの中身をブラックで飲んでいた事に気づいたせいか、やたらに苦く感じられた。
授業と特別教室での活動を終えて喫茶店に戻ると、なにやら喫茶店の中が騒がしい。
嫌な予感がして、裏手の厨房からこっそり家に入っていく。
今日は自分もシフトに入っているので手伝わなくてはならないのだが、店内を見て気が重くなった。
重い足取りをなんとか鞭打って着替え、厨房にそっと入って。
洗ったフライパンが雑にコンロに放り出されているのを見かねて、油と水気をぬぐう。
好都合だとそのまま調理器具を厨房に戻して、オーダーを沙月さんに任せる。
「いいのか」
なんでもないようにカウンターから戻った志乃さんが、塩漬けベーコンをフライパンに乗せながら言う。
「何がですか」
「やり残してきた事だろ」
視線をよこしてきた志乃さんに白ワインを渡す。
理解はしていても、納得はしていない。
「何もありませんよ」
「わからないとは言わないんだな」
軽口と苦笑を交えてまぁいいけどなとこぼし、食材を炒めていく。
チーズと卵黄を素早く混ぜて、フライパンの油ごと混ぜて。
茹でてあったパスタに盛って、沙月さんに渡そうとして首を横に振られる。
ご指名という事なのか、それとも沙月さんの判断なのか。
また結局ろくに話が出来ないままだったけれど。
今は目の前の事だと、しかめっ面をしているであろう自分の頬を叩いてカウンターへ進む。
「絵も出来るのに、料理も出来るんだ」
何気ない世間話だろう、少なくとも彼にとっては。
湯気が立ち上るカルボナーラを出しながら、表情は出来るだけ平静を装う。
「調理はあくまで店主なので」
言い方に棘があるのはわかる、それが抜けそうにないのも。
彼にくっついてきた女の子のうち一人が不満そうに口を開きかけて。
「今日は謝りに来たんだ」
あの時とは違う彼が、誰にも口を開かせずに言い切った。
ついてきた女の子たちはまだ何か言いかけていたけど、その前に彼が話を続ける事で遮った。
聞くつもりはなかったけれど、志乃さんにお前の今日の仕事はカウンターでと言われ。
沙月さんも僕より店内の様子を先んじて制していて、彼の前に立つしかない。
他の誰も口を挟まない中、あれやこれやと彼の口から身の上話に耳を傾けて。
聞き続けた結果、半ば懺悔であった彼の話が終わって。
「それで、その人に謝りたいと」
あくまで他人事だというスタンスを貫いて、続けていた作業をいったん止めて尋ねた。
「悔やみきれない事があったから」
彼なりに後悔してきたのだろうと思う。
僕から見て許せるかどうか、という事も考えてはいたけれど。
周りの女の子たちも、こんな話が始まるとは思っていなかったのか口を噤んでいて。
喫茶店の中には他のお客もいるのに、すっかり喧騒は遠くなっていて。
僕は黒い水滴を眺めて、彼は食べ終わったカルボナーラの皿に視線を落としている。
志乃さん自慢の食器で、美しい彩色の絵柄があしらわれたモノだ。
「少なくとも」
誰かのせいにしていい事ではないし、誰か一人のせいでもない。
原因が彼にあるとも言い切れないのなら、ここを訪れてくれたであろう気遣いに応えるくらいの事はしておきたい。
澱みなく滴る黒い水滴を見ながら、何度も何度も頭の中で言葉を選んで。
「恨むような相手はいないと思いますけどね」
口をついた言葉は我ながらなんとねじくれた返事かと内心ため息をついたけれど。
少なくとも彼が責任を負う必要はないと思ったから。
「そっか」
とても長く、深いほっとひと息。
まだ喧騒が遠く離れていて誰も何も言わない中、ふと気づいて取り出した器にミルクを落とし。
それから澄んだ黒色の雫をなみなみと注いで、おしぼりと共に彼に差し出す。
彼がどうして震えていたのかは、訊かない事にした。




