過去(中)
呼び止められれば視線が向くのは自然な事だし、振り返れば内心納得もしていた。
だから名前を呼ばれた声に覚えがなくても、驚くようなことではなかった。
「待ってほしい」
そう乞われて立ち止まる理由もないのだけれど、呼び止められては振り返るほかない。
彼にその気がなかったとしても。
彼に非がなかったとしても。
それを僕自身が理解していたとしても。
状況に流された結果としてあんな苦い思い出になった以上、悪感情は取り除けそうになかった。
「待って、どうしてほしいのかな」
今更話すことがあるだろうか。
それを暗に匂わせる突き放した物言いであったことは確かだろう、むろん自覚もある。
取り巻きの女の子たちが何か言っていたけれど、耳を貸すつもりはない。
二人が眉をひそめていて、険悪な雰囲気であることから罵詈雑言であることはわかるのだから。
「それは」
この期に及んでなお、彼は言葉を探していた。
何と言っていいのか、自分でも理解していないのかもしれない。
いざ目の前に来て言葉を見失ったのかもしれない。
妹との時がそうだった、自分にも少しは覚えがある。
僕はわからなかったから取り乱して喚いたけれど、彼がそうしなかった事は評価できることだと思った。
「僕から言うべきことは、何もないよ」
でも、それとこれとは別だ。
彼が何かを言うよりも先に、彼が口を開くよりも雄弁に。
取り巻きの女の子たちが彼の意思を代弁しようとして、こちらを下に見た発言で踏みつけてくる。
それはとりもなおさずあの時の再現に他ならない。
困ったまま何も言わない彼をおいて、下駄箱を離れる。
振り返る気は起きないし、なおも罵詈雑言が後ろから飛んでくることにただただ辟易していた。
あの頃ほど弱くもない、吐き気もない。
そうやって何も変わらない状況で同じことを起こすのならば。
僕にとっては何のメリットもない時間に過ぎない。
どうやって帰ったのか朧げなくらい、必死に彼とのやり取りを思い出から追い出そうとしている自分もそこにいて。
自己嫌悪で余計に気持ちを重くしたまま帰途についた。
「あれでよかったの」
ディナータイムの喫茶店での作業を終えて、モップ片手に閉店の準備をする中。
沙月さんから言われたことを考えて、まず下駄箱で起きたことだと思い至るのに数秒を要した。
「いいんだ」
あの時と同じ状況で追い詰められるきっかけを作った彼に、全く非がないとは言い難い。
それに耐えられず、逃げ出した僕にもまた非がないとも言い切れない。
お互いがお互いの意思を伝えるのに他者を介して捻じ曲げられた結果が中学での一連の出来事だったならば、彼と僕の交友関係の作り方には大きな隔たりがある事になる。
それがたとえ善意のものであったとしてもだ。
「彼が自分の意思を表に出さないなら、僕も出さないだけさ」
「意固地になってるんじゃなくて?」
沙月さんに突き付けられたのは痛いところだし、再度考えるが自覚もある。
人は変われる、という言葉がうそっぱちであるとまでは言わないが。
根を変えられないのなら、それを詳らかにした上でソリの合わない人との交流を避ければいいだけだと割り切ってもいる。
「冷たい奴だと罵られるところだね」
「わかった上でならそれでいいじゃない」
沙月さんは一転してそれでいいという。
「誰の味方なのさ」
「そりゃ見ず知らずのイケメンより宗司君の味方だよ」
イケメンなのは否定のしようもないねと笑い合う。
そんな軽い一言にすら安堵していて、これでよかったと自信が持てた。
分かり合えないのなら、断ち切るほかない。
水と油は攪拌したところで、また水と油に分かれて戻るだけだ。
「でも何のために呼び止めたんだろうね」
「さてね」
至極当然の疑問だし、言わなくちゃならないことが彼の中にあったからこその出来事だったに違いない。
でもそれは、言葉にしない以上伝わる事のないものだ。
確認のしようもなければ聞く気もない。
僕にはもう変えられない根っこの部分だし確かに意固地ともとられる事だろう。
その違いをどうやって伝えたものかとモップを止めた時、ドアベルが鳴って。
「すみません、今日の営業は終了してしまったので」
口にして振り返った時、思わず動きを止めてしまった。
その人はヒールをツカツカと丁寧に鳴らして手近な席に座る。
「そう言わないでくれ、ここのコーヒーは確かに美味しいとの評判を聞いているけれども」
君と飲むことに意味があるのだからと、悪戯っ子のような笑みを浮かべていて。
その、両手に顎を乗せる姿はあの頃よりほんの少しだけ大人びていて。
はじめまして、と僕たちに向けて頭を下げるのに対し、どうにか絞り出した言葉に。
「そうなんですか」
「そうなんですよ」
あの時と変わらない、落ち着いた雰囲気はそのままで『柊 美千留』という女性は応えてくれた。
驚いた勢いでつい先ほどまで懸案事項であった彼との確執については、頭の片隅から綺麗さっぱり吹き飛んでしまっていた。
だから、先輩がどういうつもりで姿を現したのか。
そこまで頭が回らなくても無理のない事だったと後になって思うのは、屁理屈じみた言い訳だったのかもしれない。




