過去(上)
最後の一年ともなるとやりたいこととこの先の指針を決めている人がほとんどだろう。
中にはIターンやUターン制度でプロの仕事を見習って、体験した工房や会社にそのままお世話になる人も多い。
考える事が多くて悩む人も必然増えてくるけれど、僕はもうこの先の事を決めている身で。
新しく特別教室を借りた二年の二人があーだこーだと白熱した議論を交わしていたのも気にならないし、うるさいとも思わなかった。
一つ例外があるとすれば、必ず会いに行くと言っていた後輩ちゃんがVサインと共に特別教室の扉を勢いよく開け放って登場したのには腰をぬかしたけれど。
おおよそは二年の頃と、もっと言うなら絵を描き始めた時となんら変わらない日々だったと思う。
でも、その時が唐突に訪れたのは。
僕の中ではさして驚くべきことでもなかった。
春の嵐とはよく言ったもので、唐突に晴れて唐突に雨が降る。
その日もご多分に漏れず、いきなりの雨で試合をする予定だった学校のグラウンドが使えなくなったとかで。
全く関係ないサッカークラブがこの学校のグラウンドを使って試合をしていて、一部の生徒はその様子をスケッチしに出ていた。
いい機会だからと情報関係の学科は録画してるし、そこから切り取った一部の静止画をスケッチしている人もいれば、直接目に焼き付けようと一心不乱に描いている人もいる。
僕はと言えば作品の提出も済ませて帰るところで、さしたる興味もなかったのだけれど。
お昼ご飯を吊るした沙月さんに「せっかくだから見ていこう」と言われては断る術があるはずもなかった。
ボールを追いかけてソツなくゲームが進んでいく様をぼんやりと眺めながら、志乃さんお手製のクラブハウスサンドを食べる。
ボールを奪い奪われて、時に高く飛び、鋭く叩き込まれる風景を眺める。
足元でグリグリと何かやっていると思ったらトラップだったり。
飛んでいったかと思いきやボールが全然別の所に行っていたり。
まるで猫じゃらしに振り回される猫のような気分だった。
膠着したかに思われた試合は突如均衡を崩し、シュートが決まって黄色い声援がグラウンドに広がる。
「羨ましいのかな」
「ちっともって言ったら嘘だろうね」
誰かに認めてほしいっていうのは、身勝手な事かもしれないけれど。
認めてもらえるから、仕事になるわけで。
仕事になるから、敬われたりそこにお金が発生したりするわけで。
そういった欲そのものに貴賤はないと思う。
「正直でよろしい」
「ずっと正直だよ」
主語のない胡乱なやりとりをしている間に試合が終わり、選手たちも昼の休憩が挟まれる。
他校の生徒が男女問わずざわついていて、グラウンドの真ん中より騒がしくなる。
スーツ姿の大人もいれば、今日は試合を見に来ただけの他校の男子生徒もいる。
女の子のファンが一定層についていて、選手の管理をしているクラブのマネージャーと視線をカチ合わせたりもしていて。
そこにわが校の生徒がお構いなしに録画だのスケッチだのを続ける状態で、グラウンド際はなかなかにカオスだ。
「やっぱりうらやましくなったりとかは」
「ない、です」
さすがに半眼になって片手チョップを落とす。
元々サッカー部というものにあまりいい思い出がない身としては、羨望どころか興味もない。
沙月さんに見に行こうと言われたからきただけで、黙々とボールを視界に収めて昼食を口にしていたにすぎなかった。
手軽な昼食だったのでさっさと食べ終えると、そのまま校舎の入口へ歩き出す。
「よう宗司、お前も観戦か」
「沙月さんに誘われたからです」
リア充めとからかい交じりに背を叩かれるのももう慣れたが、若干の嫉妬もあってか叩き方が強いし痛い。
散々言われている事なので、これも有名税と甘んじて受けている。
それにしても下駄箱前の軒先が騒がしい。
「宗司みたいなのはともかく、この辺でも強豪チームの試合だからな」
「はあ」
「宗司はスポーツにぜんっぜん興味がないよね」
何やらこのあたりの部活事情に詳しいのか、やたら強いのだという。
沙月さんに野次られつつ聞き流し、下駄箱で靴を変えている時。
他校の女の子らしき人波を割って、彼が現れた。
「宗司…嘉瀬宗司君?」
振り返って視線をよこせば。
見覚えのある顔、記憶にあるよりうんとガッシリした体。
聞き覚えのある声、常に何かを探るような視線もあの頃のまま。
「誰、この冴えないの」
取り巻きの女の子にそう尋ねられた彼は、あの時みたいにハの字に柳眉を下げる。
「僕の、古い知り合いだよ」
こんなのいたっけと言われ、長く彼を追いかけていた子がいるのも想像がつく。
きっと、ずっとずっとサッカーで努力し続けていたのだろう。
精悍な体つきに対して不安げな表情がなんだか小さく見えた。
さっきまで話しかけてくれていたクラスメイトは何やら怪訝そうで。
沙月さんは真顔でじっとこっちを見ている。
事情を知っている二人が見守ってくれているのだとわかっていたからか、肩の力を抜いたまま。
「試合の邪魔になるみたいだし、二人ともいこうか」
あの夜と同じ選択をした。
苦い思い出を掘り起こすこともなければ、なにもわざわざかさぶたを剥がすような事もない。
最初から関り合いがなかった事にしておけば、取り巻きの子に言われるような事もない。
そうして、他人の仮面をかぶる。
ただ。
「待ってくれ」
彼こと篠宮劉生君は、そうは思わなかったようだった。




