距離
何回かに分けて一通りの掃除を終えると、カンバスに真っ白い布を張り直す事からはじめた。
もちろん布は画材を取り扱う店から小遣いで買ったものだ。
絵の具や傷で古ぼけてはいるものの、しっかりと立つイーゼル。
ここに一枚、張りなおしを終えて乾かしておいた一枚を置く。
何を描こうか。
何がいいかな。
そもそもどういう描き方をしようか。
ラフスケッチからはじめてもいいかもしれない。
そんな期待から、なにも描かれていないまっさらなカンバスの前でうんうんと唸る。
そもそもカンバスに張るだけとはいえ大きなものなので安くはない。
しかしこれは展覧会に出すものでもなし、お題はない。
描きたいものを好きにしていいのだ。
自然と「そうまでしてでも描きたいものとは何だったか」という所に収束する。
よし、と決めるとまずはノートと鉛筆を手にラフスケッチを始める。
先輩もここにきて、資料棚の向こうでヒマを潰すように本を読んでいた。
干渉はない、覗きに来る事すらないのは正直助かる。
もうあんな思いをするのは御免なのだ。
不安になったので頭を振って悪い想像を振り払い、スケッチを続ける。
同じ構図を描くのでノートのページを全く同じもので何枚か潰してしまったが、別にいい。
これから描くものはこれをはるかに超えるサイズの大きなものなのだ。
そうやって何度もシュミレートを繰り返し、何度目かを終えた所で最終下校の音楽に気づく。
「やあ、宗司君。帰らなくては怒られてしまうよ」
戸棚の向こうからひょっこりと頭だけを出している先輩は、ちょっと困った顔をしていた。
「いつ声をかけるべきか迷ったのだけれどね」
先輩は忘れ物がないかを確認し、鍵をかけながらひとりごちる。
「いえ、言ってもらわないと時間を見失っていたかもしれません」
「そうかい?じゃあ今後も最終下校まで残っている時は呼ぶとしよう」
先輩はそれだけ言うと前を向く。下駄箱で靴を履き替えてから、本当はと続けて
「呼んでいいものかすら躊躇ったのさ。うんうんと唸りながら決めあぐねていたようだし」
作りかけを見られるのってあんまりいい気分でもないし、と先輩は語る。
「そうですか?」
「そうだとも」
自覚はなかったので、ちょっと恥ずかしい思いをしてしまった。
悪戯に成功したように笑う先輩。
自転車置き場を横切れば、まだ生徒は幾人か残っていた。
「おい、あの『鉄の処女』がオトコ連れてるぞ」
「何も知らないのか、あの一年。かわいそうに」
なにやら好き放題な物言いをしている先輩がいるようで、遠くからだがやけにハッキリ聞こえてきた。
見れば男の先輩が数人、こちらを見ている。
聞こえよがしだったが僕を見て憐れむような、残念そうな表情でチラチラと視線を寄越していた。
不快は不快だが、興味もないし思うところはないので表情を動かさずに素通りする。
ああいう手合いは反応すればするだけこちらの対応を楽しむものなのだから。
「小うるさいハエが汚い○×△のニオイにたかってみっともないものだ」
呆れ顔で響き渡るように宣言したのは、先輩のほうだった。
まさか凛とした表情から似つかわしくない下劣な語呂が揶揄する形で飛び出した事実にも驚いたのだが。
何故と思う僕をよそに先輩はこちらをしっかりと見る。
「宗司君は、ああはなるんじゃないぞ」
およそ多くを語らず、軽い雰囲気を醸し出しながらも余裕のある態度しかとってこなかった先輩がやけに真剣にそんな事を言ってくるので、表情を引き締めてはいと頷き返した。
ならいいんだと先輩も表情を戻す。
先輩たちは一様にしかめっつらで、しかし反論も出来ないのかこちらを恨みがましく見送るだけで。
捨て台詞すら吐いてこなかった。
校門を出かかったところで先輩から呼びとめられた。
「キミの事だ、気にも留めていないだろうが」
「はい」
何の事かは問わず、また問われない。
仔細を尋ねて解決するようなカウンセリングは求めてはいないから。
傷の舐め合いのためにあの部室の門戸を叩いたわけでもない。
「はみ出しモノ同士、仲良くしよう」
それだけ言い残すとまた明日と言って去っていった。
返事は必要ないということだろう。
僕も振り返ることなく歩いて、歩いて、歩いて。
家に着いて、妹にみつからないようひっそりと自分の部屋に入って、鞄を置いたところでようやくひと心地がつけた。
ベッドに座って言われた事の意味を考える。
(憩いの場って事でいいのかな)
あの教室というより資料室を先輩が勝手に美術部として占拠している事に着いて、思うところがなかったわけではない。
顧問をやらされていると口にしていたやる気のなさそうな先生もたいそう驚いていたが。
僕は、絵を描く環境があるなら文句はない。
先輩も、必要であれば話してくれることもあるだろう。
不思議な距離感の間には、桜の花びらが敷き詰められていた。




