懊悩
「失礼しました」
やるせない気持ちでモヤモヤとしたものを抱えながら職員室を後にする。
どうあるべきかなんてものは本当は自分で決めるもので、誰かに言われてこなすものじゃない。
とはいえ彼に暴力をふるったことに変わりはないし正当化するつもりもなくて。
思ったことは全部伝えて、なんであれ自分が悪い事も間違いないとも口にした。
救いがあったとすれば、目撃していた人から擁護して貰えた事。
あとは、日ごろの行いが多少。
正しい事を成したというには後味が悪くて苦々しいけれど。
職員室を辞した志乃さんは、いたずらに成功した子供のような笑い方をしていた。
「派手にやったな」
周りの大人を含めてお咎めなしと判断してもらえたことだけは、胸を張ってもいいのかもしれない。
一緒に来てあれやこれやと言われていたのに、眉間に皺をよせていないのがいい証拠だろう。
「次はもうちょっと考えます」
「そんなタマじゃないだろ」
バンバンと背中を叩かれる。
そのわりに志乃さんの表情は晴れやかで、怒った様子はない。
「つくづく変な保護者です」
「若さでケンカ起こすクソガキには言われたくないわ」
お互いの事をそうやってつついて、先に笑ったのは志乃さんだった。
もうすぐ日が落ちる時間帯で、授業はとっくに終わっている。
外はすっかり寒くなり、どうせだから乗って行けと駐車場へ呼ばれて。
「ディナータイムにはちゃんと切り替えろ、悩みでも愚痴でも聞いてやるから」
「酔っぱらいながらですか」
バレたかと舌打ちするわりに、やっぱり楽しそうな志乃さんとの帰り道。
創作活動もそろそろ潮時で、廊下も下駄箱も校庭も。
どこもかしこも閑散としていて静かなものだった。
「学生の頃にさ」
志乃さんはいつものスマートな動作でドアをあけてシートに腰かけて、僕も乗って。
しんとしたエンジンがかからない車の中、思い出だけが巡る。
「仲のいい奴がいたんだけど、病気でロクに登校できなくてさ」
最初はウマが合わなくて、先生に言われて仕方なくプリントを届けて。
病室でギャアギャアと騒いで喧嘩して。
最後には仲直りして互いの夢を語り合う、そんな関係の女の子がいて。
片やでっかい事を成し遂げるために経営者になりたくて、片や地元の商店街で小さな喫茶店を開きたくて。
具体的にどうすればいいのかを宿題のプリント片手に話し合っていたのだという。
「病気の事さえなければ、才気あふれる切れ者だったんだよ」
自分よりよっぽど才能にあふれた人だったが、結局その夢は叶えられることはなかったという。
「それで、あの喫茶店ですか」
「私は夢を背負うという形で自分の心にけじめをつけた」
そういう話さという志乃さんは、懐かしそうにハンドルをなでる。
いわゆるスポーツカーに分類されるもので、燃費や整備性よりも見た目に重きが置かれた高級品。
志乃さんはいつもこの車についてを語る時だけは、やさしい顔をする。
「この車もそいつの思い付きだ」
颯爽と乗りこなせば女だからと舐めてかかられることもないだろうという、短絡的な話ではあったけれども。
僕にはその稚拙な思い付きを笑い飛ばせなかった。
「お前もどうしたいのか、決めておけよ」
後悔してからじゃ遅いと付け加えてエンジンをかける志乃さんの横顔は、少しだけ寂しそうだった。
喫茶店のディナータイムは週末とあってか混んでいて、あまり考える暇もなかったのは結果的に良かったのかもしれない。
お客さんの要望に応えて機械的にオーダーをとればいいのだから、気分は楽だった。
着々と仕事をこなして、時間が過ぎるのを待って。
「宗司君」
「なに」
沙月さんと話をする時間がやってきたのは、全部終わって生活スペースに戻ってからの事。
彼女はわざわざ風呂から上がった僕を部屋で待っていた。
「才能をもっている人にはわからないって言葉、なんとなくだけどわかるんだ」
「うん」
「別に木崎君を擁護しようとかじゃないんだけどさ」
「わかるよ」
「宗司君は、なんで怒ったんだろうって思ってさ」
ひとつひとつ、彼女が整理しながら何かを言おうとするのを静かに待つ。
沙月さんもどうしてこんな話をしているのか、自分でも整え切れていないのかもしれない。
「彼も才能がないわけじゃないさ」
「それはわかるけど、言ってみれば宗司君には関係ないよね」
突っかかってくるだけだしと言われて、彼女の言わんとするところをようやく理解する。
「僕には何のメリットもないってこと?」
「極端な言い方をするなら」
確認をとってようやくくみ取れる。
僕はやっぱり彼女の事を何も知らないなと苦笑して。
「そりゃあ、沙月さんを揚げ足取りに使われたら怒るでしょうよ」
あれから考え続けていた唐突な怒りの意味は、あっさりと解けていた。
彼とは大した関係でもないし、意識するような相手でもなかったのだけれど。
自嘲に、言い訳に、理由付け。
いずれにせよ自分以外に原因を擦り付ける事だけは我慢ならなかったのだと結論付けた。
僕にとって大切な絵の事が絡んでいたのなら、なおさらのこと。
「それは私じゃなくても怒ってた?」
もっと細かく聞きたいという沙月さんの疑問に応えようとして。
不意に、引き出しに視線をずらして。
「さあ、そこから先は自分でも」
その先を言ってもいいのかどうかはわからなかったから、最小限の言葉で濁す。
不満げに口をとがらせる沙月さんにそれを聞かせるには、自分の事も彼女の事も知らなさすぎると思うから。




