才覚
学校にいると気になることは主に三つ。
勉強についてと、絵についてと、毎度やってきては絵を描けと言ってくる後輩君の事なのだが。
今日はと言えばいつもは特別教室にやってきてギャアギャア騒いでは他の先輩に追い出される彼がやってこなくて、いつもより少しだけ静かな時間が長かった。
「珍しいこともあるもんですね」
「いっそこのまま来ないでくれると助かるけどな」
ライバル視出来る人物がいるというのは自分の腕を磨く上では大事なことだけど、はた迷惑なのは頂けないというのが風評だった。
とはいえ彼自身はめきめきと腕前をあげて、賞状をいくつもとっている。
「あれで実力は確かなんだからすごいものですよ」
「実力と引き換えに破綻してたらこっちは迷惑なんだけどね」
それは君に言ってもしょうがないよな、と笑い飛ばしてくれるのがせめてもの救いだ。
「それで、どうなんだ」
ペンタブと画面を見ながら、もう一人の先輩の問いの意味を考える。
後輩君の言っている事なら、理解はできるけれどわざわざ時間を割きたくないというのが本音だ。
デジタルイラストについてもいくつかのコンテストに提出して、安定した絵が描け始めたこの状況を手放したくはない。
「彼がデジタルイラストに転向するのであれば、ですね」
「獰猛な顔してんな」
そういう先輩も、気持ちはわかると同意はしてくれる。
「でも、あいつの言う事もわからんでもないんだよな」
「どういう事ですか」
「お前はカンバスでも上手いからな」
勿体なく感じられる時があるんだと、先輩は言う。
はたして、そうだろうか。
結局僕が描いているものなんて素人が好き勝手に描いたものに過ぎないから、それをたまたま身の回りに評価してくれる人がいる。
ある種の幸運に恵まれただけではないだろうかと思っている。
「アナログにも描いて、デジタルにも描くって勝手が違うからな」
どちらもやっていくのは難しいというよりも別物だ。
だったらと思ってデジタルに活動の場を絞ったのだが、傍から見て勿体ないと思われたのならば。
「言ってみりゃあいつはお前さんのファンの一人だったんだろうさ、ちょっとこじらせてるけどな」
彼の場合は先輩たちよりもっと強くそう感じていてもおかしくないだろう。
だからこそ、僕との「けじめ」のために絵を描けと言ってくるのかもしれない。
それは、ずっと僕の中でくすぶっている課題によく似た答えに違いない。
「じゃあなおさら相手には出来ませんね」
「聞いてもいいか」
「それで満足しちゃったら、面白くないじゃないですか」
なんだかんだ言って話し相手はするし、教えろと言われれば描き方は教えられる範囲で教えるだろう。
けれど彼は、僕に勝ってその後どうするかに答えられなかった。
まだ僕の技量を評価してくれているのだとすれば。
もう少しの間だけ、高い壁であったほうがいいと思う。
今自分は悪い顔してるだろうなぁと思うところで、ガラリと扉が開く。
彼かと思って先輩と一緒に振り向けば、そこにいたのは同居人だった。
「沙月さんか、片付けてすぐ行くから待ってて」
「木崎君じゃなくて悪かったね」
べーと舌を出されて、苦笑する。
さてここでの話題をどう弁解するものか。
「そっちのほうはどうなんだよ」
沙月さんねぇ、と先輩たちが悪い顔をしてこっちを見てくる。
今後は名前で呼ぶようにと釘を刺されている手前、いずれ聞かれるだろうとは思っていて。
どうせならと用意してあった、煙に巻くための魔法の言葉を口にする。
「妖精さんのみぞ知る、というところですね」
何のことか理解できずに首をひねる先輩二人に笑いかけて、片付けた特別教室を後にした。
「今年もシチュー、売れるかな」
「残ったらまかないで食べましょうか」
下駄箱で沙月さんと二人、そんな喫茶店での話をしながら校舎を出ようとした時。
「…」
噂の後輩君は、じっとこちらを見て立っていた。
いつもと違って勝負しろと言ってこないのが不思議だったけれど。
何も言ってこない彼に驚きのあまり固まる僕をさしおいて、独白が耳に刺さる。
「先ほど喫茶店にいってきて、『カフェ・ラッテとアカシア』を見てきました」
それでどうして、彼は捨てられた子犬のような表情でこっちをみてくるのか。
「僕にはあれだけのものは描けないと思いました」
一番聞いておきたい何故という部分を、彼はバッサリと切り捨てた。
「どうして描けないなんて」
「わかりませんよ、才能のある人には」
沙月さんの言葉を遮る彼の冷酷な言葉の重みを、僕には否定できない。
この先美術芸術というものに関わる以上、それはプロになるまでに避けられない問題で。
一握りの才能のある人だけが食っていける世界で、とてもシビアである事は僕も理解している。
でもその続きは、僕には許容できなかった。
「彼女を引き連れながらあんな絵を描けるなんて、うらやましい限りです」
そう口にした彼の胸倉をつかみ上げる。
下駄箱に背中を叩きつけられた彼が、恐ろしいものを見たと言わんばかりに眼を見開く。
「どうして描けないと思ったかは聞かない、聞かないけど」
どうして僕は怒りに任せて彼のネクタイとシャツを引き絞っているのか。
冷静になれ、と息を整えようとしている自分がいて。
どうしてそんな事をと感情が悲鳴をあげている。
「自分の努力を棚に上げた卑屈さだけは許さない」
他人のせいにするな、とだけ言い添えて手を放す。
彼の顔をこれ以上見ていられなくて、沙月さんを促し帰路につく。
彼はもっと描ける腕前があると信じている反面。
これではあのサッカー部の奴らと何も変わらないと、自己嫌悪で吐き気をもよおすような帰り道だった。




