吐露
雨が降る時期になると塗料が乾くまでに時間がかかるのが悩みだったが、デジタルに移行してからその悩みはない。
自分の腕で、手で、絵の具の具合をまるで相談でもするかのようなあの感覚がないのは寂しいと言えば寂しいが、これはこれで趣がある。
学校が終わって、今度はデジタル作品のコンテストに向けて一枚の絵を完成させているところだった。
「これで」
出来上がり、ということにしておこう。
後からでも修正が利く部分がたくさんあってキリがない。
ガジェットの電源をきって携帯で時間を確認すると、もう深夜帯だった。
この時間に屋内をうろうろしても誰も怒らないが、次の日の朝起きるのがつらくなる。
明日の予定はどうなっていたかなと反芻して、少しだけわからない部分が出てくる。
「学校から言われてる分の出展作品は出来上がっているけど」
わからない部分が出てくるとモヤッとした気分が抜けきらないので、すぐに行動。
「あれ」
志乃さんはいつもどおり酔っぱらって寝てしまったはずなので、誰もいないと思っていた。
それがなんでか、一階のリビングで明かりもろくにつけないままソファに座り込んでいる東海林さんがいた。
「こんな時間に珍しく、は、ないのかな」
「そっちこそ珍しい」
お茶を片手に彼女は苦笑する。
「なんだか眠れなくてさ」
冷蔵庫に冷えたお茶がまだあったので、倣ってコップに注いで。
彼女の向かいに座る。
「それで」
どうかしたのか、と言外に伝えてみるけれど。
彼女は少し寂しそうに笑うだけで、返事は来ない。
「こんな時間にこんなところでぼんやりしてたら心配にもなるよ」
それに、と付け加える。
これは言うべきか否か迷いはしたが。
「誰にも知られたくなければ部屋に一人で悩めばいいんだもの」
言わなければ伝わるはずもないし、言って悩んでからの後悔でいい。
それは、僕にとって忘れられないあの『手紙』での傷だったから。
「今日は冴えてるじゃん」
「絵を描いた後で、集中した状態から抜けきらないだけだよ」
彼女の話は、長かった。
時折脱線はしたけれど。
ずっと母親の背中を追っていて、その途中志乃さんを見て。
志乃さんを見習うところからはじめて、その志乃さんから僕を見てみろと言われて。
僕をみて自分に何が足りないのか、ずっと観察していた事。
「わかんないんだよね」
何が、とは聞かず。
続きを促しもしないまま、ぐっとお茶を飲み干す。
「ぼんやりしてるなと思ったら、すっごい色々考えててさ」
「うん」
「妹さんの事でうじうじしてると思ったら、馬鹿にしてくる相手に啖呵きっちゃうし」
「そんな事もあったね」
「友達に無償で力を貸すから情に厚いかと思ったら、挑んでくる後輩には冷たいし」
「そうだね」
なにひとつ間違ってはいないし、否定もしない。
琥珀色の水面を眺めながらポツリポツリと彼女の取りこぼしを聞いていく。
「宗司君は一体何を見てきたんだろうって」
その疑問は、彼女から見た僕という人間の印象を聞く限りなら当然の帰結だろう。
「あの時後輩ちゃん、なんだか変な笑い方してたから」
そこでようやく気付いた。
僕と望月さんの関係が、きっと彼女からは歪に見えて仕方なかったのだと。
他人とのかかわり方があまりに歪んで見えたのだろうと。
何を言うべきか迷ったのは数瞬で。
すぐ部屋にあの鍵を取りに戻って、東海林さんの前に置く。
「絵を描きたいなって、それだけなんだけどさ」
東海林さんがおもてを上げるのを見てから、お茶をもう一度注ぐ。
もうひとつのコップにも注ぎなおして、ひと口。
「けじめはつけておかなくちゃと思ってた」
「それがこの鍵?」
柊先輩のやり方をそっくりそのまま倣うだけのものではあったけれど、それを枷にしてほしくなかったから。
「こうしてほしいなんて結局、言った側のわがままだもの」
望月さんがこの鍵を返しに来たのはきっと、答えだったのだと解釈している。
どっかりとソファに背を預けて天井を見上げたまま、一年前のやりとりを思い浮かべる。
「上手くやらなくていいって伝えたつもりだったからね」
心配ではあったけれど、あの人が僕に残した手紙のように。
好きなようにしたらいいと願って、柊先輩から預かった鍵をそのまま渡した。
どうしてか東海林さんはそんな僕の言葉にショックを受けていて。
なんだか迷子みたいな瞳をしていた。
「そんな事されたらどうしたらいいかわかんないよ」
「わからなくていいんだ」
真っ白なカンバスを見て、何を描こうかワクワクしていたあの頃の気持ちを思い出す。
「自由に責任はつきものだけど、舵は自分できっていいってことだもの」
ならせめて、その舵取りを楽しんで自由に駆け出してほしいと思う。
「失敗しない事よりも、失敗することは無駄じゃないって事だよ」
少なくとも志乃さんが乗り越えてきた経験は、聞く限り遠回りの連続だ。
でもあの人は、そんな遠回りを全部糧にしてきてこの喫茶店を立てている。
「もちろん上手くやれたなら万々歳だけどね」
肩をすくめて、飲み干したコップを置く。
ぽかんとした東海林さんが何を思っているのかはわからない。
わからないけれど。
「覚えとく」
そう短く答えて部屋に戻っていく様を見て、憧れているだけある志乃さんに似てきたのかななんて。
少しだけ不謹慎なことを考えたのは、僕の胸だけにしまっておこうと思った。




