家族(下)
緋色の教室に自分の叫びが突き刺さる。
妹に暴力をふるうでもなく。
「なんで謝るのさ!」
罵詈雑言を浴びせるでもなく。
「なんでお前が謝るのさ!」
机をたたこうとして、握りしめた拳は振り上げることもできないし。
「無視すればいいだろ!」
皮肉を返すような冷静さも残っていなくて。
「居ないものとして扱えばいいじゃないか!」
それでいいと思っていた。
目も合わせられなくたって、しょうがない。
「気に食わなきゃ関わらなければいいだろ!」
性格が合わないことだってある。
どこまで行ったって僕らは別の人間だから。
「嫌いならそれでいいじゃないか!」
関わらなければいちいち怒ることも、腹を立てる必要もない。
それでいいはずなのに。
「なんで謝りに来たんだよ!」
非難にもならない叫びが思ってもいないのに次から次へと出ていく。
この子はずっと、歯を食いしばって聞いていた。
最初の宣言通り、うろたえず微動だにせず。
静かに耳を傾けていた。
息が切れて動悸が激しいまま、言わせたくない、言わせるものかと息を吸い込んで。
「だって、家族だもの」
その言葉に次に何を言おうとしたのかすっぽり抜けてしまって。
椅子に深く座りなおした。
「赤の他人なら気にしないけど、兄さんは兄さんで、私は妹でさ」
ぽつぽつと語り始める。
やっと彼女は理由を語り始めた。
「あんなこと言って、後悔してたから」
これ以上嫌われたくないと思ったから、ここに来て。
きっと一人じゃ会えないし会ってくれないと思ったから、両親にお願いして。
それでようやくたどり着いたのだという。
「いまさらこんな事言われても困るよね」
でも、正直に言わなくちゃまた怒られちゃうからと言う。
そこでようやく彼女の顔を見た。
「なんだよそれ」
「やっと顔を見て話してくれたね」
右のほほが西日の差す教室にいてもわかるくらいに腫れていた。
「東海林さんって言ったっけ」
きっと、展示コーナーに戻らない僕を探すべく出張喫茶店まで行ったんだろう。
グーパンで殴られちゃったとあっさり言う。
「兄さんがいるであろう教室を教えてやるからいますぐ行け、一人でだって怒られちゃった」
どうして一人でなのかと思って、再び思い出す。
なんで東海林さんは一人で送り出したのか。
なんで両親は一人で行くことを許したのか。
唐突に現れて娘を殴った相手に喝を入れられて黙っていたなんて信じられなかったけど。
頭ではわかっていて、ちゃんと理解できていなかったことがようやくカチリと音をたてて嵌まり込んだ。
「臆病さが残酷になるって、そういう事か」
みんなわかっていたんだ。
どうして家を出たのか、それを理解したうえで。
父さんも、母さんも、志乃さんも、あまつさえ付き合いの長くない東海林さんでさえも。
知らず、ため息が出る。
「情けないなんて思ってないよ、兄さんは私の事を思って家を出たんだって解ったから」
考えを手に取るように理解されて、ようやく体が弛緩していく。
「そっか」
「中学校で、自慢できるくらいすごい兄さんなんだぞって周りに言われててね」
それは、おおむね僕が体験してきた事の大半だった。
少しだけ尾ひれがついていたけど、僕の話を伝え聞いたのだろう。
どうしてかそれが強がりに聞こえて。
上手く言えるかわからなかったけれども、何年かぶりに名前を呼んだ。
「優美」
「コンテストに何度も入賞してたんだって聞いてて」
「もういいから」
「大人も参加する絵画展にだって入選してたんだって」
「わかったから」
「いじめられても、めげずにやりたいことをやり通したんだって」
「いいんだよ、もういいんだ」
最後のほうは涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
僕はもう、ヤマアラシはごめんだと思ったけれども。
妹を慰めてやるには、もう少し時間が要りそうだった。
中学校ではソフトテニスを頑張ってるとか、兄さんと違って美術の成績は奮わないとか。
僕も喫茶店で見世物パンダになってるとか、伝え聞いてる話が盛られてるとか。
そんな他愛のない今の話をしながら体育館について。
結局志乃さんの喫茶店で久しぶりに家族全員でご飯を食べて。
夜遅くにようやく三人を見送った。
「世話の焼ける兄さんだこと」
車が見えなくなるまで見送った僕にしみじみと東海林さんが言う。
「申し訳ない」
「いいよ、私も一度通った事だし」
「偉そうに」
志乃さんの呆れたような一声に舌をチロリと出して応える東海林さんは実に楽しそうだった。
「そうだ」
そこでようやく気がついて、東海林さんの手を取る。
「なになに逢い引き?」
「茶化さないでよ」
救急箱を持ってきて、ハンドクリームをいくつか。
「手当てはしたんだけど」
「保湿クリームと皮膚を繕う医療用のハンドクリームは別」
皮膚があまり強くない妹にもこうしてたっけと、不意に昔のことを思い出して。
「手のかかる妹だなぁ」
「うっさい」
すねてそっぽを向いてた東海林さんの耳が赤くなっていたので、よしとしておいた。




