幕間7・東海林沙月
私の家は母子家庭で、物心つく頃から母と私だけだった。
片親であることを気にしてか、それとも悟らせないためか。
母は私が小さいころからかなり無理をしていたと思う。
大手のアパレルメーカーに勤めてもう長いが、責任ある立場にまで上り詰めた人だ。
若い子の感性と意見をという事で母の仕事場にお邪魔することもあったが、母の仕事ぶりはかっこいいというよりも大変そうという感想が先に来た。
「世渡りがもう少し上手くできればよかったんだけどね」
カラッと笑う母ではあったが、仕事が回りきっていないのは明白。
これをあっという間に解決したのが如月志乃という美貌の女性だった。
派遣を辞めてやってきたというこの人は、いかにも快刀乱麻を断つといった手腕で仕事の滞りを解決していって。
昇進を迷うことなく蹴飛ばし、母の元で好き勝手ができたから意味があったのだと。
他の人間がリーダーになったところで意味がないと口にして躊躇いなく職場を去った。
もちろん放っておくには惜しかったらしくそのまま残ってほしいと嘆願したそうだが。
「私には他に目指すべき場所があります、成すべき事があるので」
そう口にして今度は丁寧に退職願までも添えて引き払っていった。
あっさり辞めていったわりに母とは仲良くなったらしく連絡をとっていて。
そうして仕事以外でその人に会うこととなったある日、母にお願いして付いていき。
辞めた本当の理由はどうしてかを聞いた事がある。
「約束がある」
短くそう口にしていたが、それ以上は踏み込めなかった。
怜悧な美貌で人を寄せ付けないこの人が、この時だけとても優しい眼差しで遠くを見ていたからだ。
いつ、だれと、どんな約束だったのかはわからなくとも。
この人にとってとても大事なものだという事はよくわかった。
それからというもの、母を通してこの人に会う事にした。
母の言っていた『上手くやる』を体現する人物だと思えたからだ。
志乃さんにあれやこれやと質問して、自分をどう磨くべきか考えて。
能力の至らない部分を軌道修正でカバーして、時には助言をもらって打開して。
中学に上がって視野を広げる頃には自力でそうした生活を循環させられるようになっていた。
女子コミュニティの敵を出来るだけ減らす。
男子コミュニティには下手に媚びへつらわない。
先生たちにはゴマすりではなく恩を売る。
勉強しながらそれらをこなして、高評価をもぎとることに成功した。
母と同じ服飾の仕事に就くことを目標としていたため、美術関係に強い学校へ通うのも予定調和で。
あと少しで入学式という折、最寄り駅までの定期券を買うかどうか迷っていた私を止めたのは母と、母の携帯から聞こえてきた志乃さんの声だった。
電話にて志乃さん曰く。
ひとつ、志乃さんの甥っ子がいること。
ふたつ、ついでに住み込むこと。
みっつ、生活上のルールは三人で決めることというのが条件で。
たったそれだけかと私は一も二もなく飛びついた。
他ならぬ志乃さんの仕事ぶりと目標とはなんだったのかを知る機会を見逃すわけにはいかなかった。
ただ、三つめのルールの意味を考えなかったのは私の落ち度だろう。
志乃さんから四つ目の条件が提示されたのは、引っ越してきた当日。
彼がいないタイミングで言われて思わず素の反応を返したのは大失敗だった。
「聞いてません、どういうことですか」
「そういうとこだぞ」
仕方のない奴だと肩をすくめる志乃さんは、喫茶店の片づけを終えてワイン片手にご機嫌で。
私はといえば甥っ子である宗司君をよくみていろという、意味の分からない最後の条件に困窮していた。
志乃さんは私がどういうつもりでここに来たのかを見抜いた上で言っているのはわかる。
だから三か月、彼の事を観察してみた。
彼についてを見る限り特筆すべきことは多くない。
自己評価が極端なまでに低いが、卑屈でもない。
気が付いたら本を読むか絵を描いていて、腕前も成績も特待生なだけはある。
何かを憂うような表情が格好いいと、女子に隠れた人気があるくらいだろうか。
実際彼と彼の絵を目当てに通っている生徒客もいるようだし。
違和感があったとすれば、風呂上がりの薄着で彼の部屋に行った時だろう。
思ったより落ち着いた反応が返ってきて、ちょっと悔しくなってしまった。
それ以降も何度か薄着を彼の目の前に晒してみたものの、動じないしチラ見で済ませるし挙句に落ち着き払ってタオルまで寄越してくる。
正直意地でも彼をうろたえさせてやりたいと思って、彼の前に迫った。
「絵を描くの、楽しい?」
「楽しいですよ」
集中を切らさないためかこちらを見ないまま言う。
もう少し踏み込んでやるかと思っていた私は、次の言葉で完全に虚を突かれた。
「東海林さんは、たのしいですか」
そもそも抑揚もなく主語がすっぽりぬけて、問いとして投げかけられたかどうかすらあいまいな一言で。
どこまで彼が見抜いていたかはわからない。
わからないが、私にとって重大なミスであり欠けていたものだというのは何となく理解できた。
思わず自室に帰って、彼の言わんとした事の意味を考える。
彼は、私や周りに見せていない一面があることを思い知らされた。
嘉瀬宗司という人物を、もっとよく見ておくべきかもしれない。
志乃さんが口角をあげてこちらをみているのは少し癪な気分でもあったけれど。
私は改めて彼の行く末をよくよく見ていくことに決めた。




