幕間6・嘉瀬優美
小さい頃はそんな事もなかったのだけれど、私は兄が嫌いだった。
嫌いになった、と言うべきか。
兄と比較されることもいくつかあったけれど、それ以上に兄の趣味の事を引き合いに出されることが嫌いだった。
発端は小学生のころにさかのぼる。
兄がいじめられている、との事で。
私もそんな弱い兄の血族ということで、散々からかわれた。
そのたびに私はといえば噛みつくような対応をした。
比喩ではなく、文字通り物理的に噛みついたことだってあった。
そんな対応しか取れない自分の短慮と。
私を引き合いに出す周りと。
なによりそれをよしとしておく兄の弱さに怒りが先立った。
だから、言ってやったのだ。
お前のせいだと。
お前が嫌いだと。
兄はどんな顔をしていただろうか。
思えばそれ以来、兄の顔をまともに見ることはなくなった。
それからずっと、意図的に話しかけられても居ないものとして扱った。
私は意固地になっていたのだろう。
兄も卑屈になっていたのだろう。
最初はそう思った。
実際は違う、というのを聞いたのは母の口からだった。
「いつでも優美の心配してたんだから」
兄は、私の見えないところで兄をしていたのだという。
はっきり言おう、嘘だと思った。
そんなわけない。
兄が絵なんて描いていなければ恥ずかしい思いをせずに済んだのだ。
兄さえいなければ私は平穏だったのだ。
そんなわけがないんだ。
私が入学する前から自分の事でいじめられやしないか心配してたって。
それどころか、胸を張れる実績を積んで学校から賞状までもらっていたなんて。
そんな事絶対にあるはずがない。
思い込もうとして、実際に入学してから思い知らされた。
兄は下級生の間でも有名だった。
悪い噂を流され、描いた絵まで破られて、今頃教室の隅でメソメソしてるに違いないと踏んでいたのに。
それどころか大きな賞をもらって、誉めそやされていて。
自慢の兄貴をもって幸せだなとまで言われる始末。
なにそれ、と思った。
ここでも私は、怒りが先立った。
あんな卑屈なやつより自分は下なのかと思うと、怒りだけが自分を染め上げた。
分野は違うにしろ、あんなのに負けたくないと。
入ったソフトテニス部で毎日必死の練習で食らいつき。
ある時、それを打ち砕かれた。
「ムッツリスケベめ、いっちょまえに色気振りまきおって」
叔母にそう挑発されて、怒りながらも平静を保とうとしていたのに。
バランスを保てなくなったのを見抜かれていた。
当時は頑として認められなかったけれど。
「自分の口で言え」
甘えるな、と一刀両断された。
何のことだと聞こうと思って、口をつぐんだ。
兄の事だけではないと、言外に語られる。
そこで急速に頭が冷えていって、冷静にそれまでを振り返るようになった。
記憶を思い起こせば、ぼんやりとだけど兄の悲しい顔が浮かんできて。
情けない顔をして、と思っていたけれど。
それ以上正確に兄の事を思い出せなくて憤然とした。
でも、どこかで兄と話をしなくてはならないと思い始めて。
部屋を訪ねようとして、何をいまさらと引き止める自分と葛藤して。
どうしようかと迷っているうちに兄は叔母によって連れ去られたと聞き、脱力してしまって。
半ばもういいかと思った頃に、食卓での会話が聞こえてきてしまった。
「ごちそうさま、それで」
「優美か、今頃部屋にいるんじゃないか」
「学校でのことは何か言ってた?」
「いんや、いつも通りだったな」
「誰かに何かされたとかじゃないんだよね」
「そうだな、そんなそぶりはない」
そもそもあの子ならそれくらいは自力でなんとかするさ、と父が無責任な返しをしていて。
実際その通りだけど、兄がいる手前食卓に行くこともできずに立ち尽くしていた時。
「よかった」
兄の安堵する声が聞こえてきた。
「あの子が恥ずかしいと思うような兄貴だと、大変だっただろうから」
賞状なんてもらっても気にしてなかったけれど、意味があったよと。
僕がいなくても心配いらないね、大丈夫だねと。
そんな事を口にしていて、愕然とした。
兄にとって受賞することは二の次だと言う。
そんな馬鹿な話があるかと思って。
後日、美術部に入っていたはずの友達に聞いてみて。
「言ってたね、受賞とかどうでもいいって」
後悔した。
「好きなものを好きなようにして、その結果褒められたのなら万々歳ではあるけどねってさ」
ウケるなんて言いながら棒つき飴をコロコロと口の中で転がす彼女は、軽口は叩けども嘘はつかない。
聞けばほかにも、たくさんのエピソードが出てくる。
望月先輩、という人からいろいろな話を聞いたのだという。
放課後の時間をめいっぱい借りて、兄の話を聞いた。
部活をサボらせてしまった友達はダイジョブダイジョブと言っていたけれど。
この場所で起きた事を聞き終えて、一刻も早く兄と話をしなくてはならないと思った。
どう考えても謝るべきは私で。
どう悔やんでも切り出すべきは私で。
仰げば尊しが流れる中、急いで顧問に謝りを入れて部活を休み。
鞄をひったくるように掴んで、家まで走って。
転がり込むように家について。
兄の部屋を勢いよく開けて。
私はまた後悔した。
そこは家具がほとんど取り払われてがらんとした部屋に、絵の具のにおいだけがこびりついていて。
窓から舞い込んだ桜の花びらと共にへたり込んで、泣いた。
どれくらいの時間が過ぎたのかわからなくなるまで、泣き続けた。




