経験
学校を出るといやこれは暑い、とも思ったが。
すっかり冷房病で夏ばてが心配になる暑さで。
ここまでの時間はあっけないな、というのが第一印象で。
あっという間だった、というのが終わってみた後での感想だった。
夢でも見ているのかと思いながらランチタイムの営業を終えたくらいに志乃さんの下へ戻る。
「案ずるより生むが安しってのはこういう事だ」
荷物を投げて寄越した志乃さんは、スポーツカーのエンジンを暖めていた。
何事か、と思う僕を置いてけぼりにするのはいつものことながら。
絵も日用品も回収済みで、制服の事は気にしなくていいという志乃さん。
「どこへ」
「家」
最低限の会話は相変わらずながらも、なるほどと思いそのまま乗り込む。
まず立ち寄ったのは学校と部室で、絵を戻すとすぐに家まで送られて。
「ほれ」
家の前で封筒を渡された。
中身を見るとどうやらお金のようで、手に持って厚さがわかるくらいでギョッとした。
驚きすぎると声も出ないのは本当だったと頭の片隅で思う。
「それを使って、卒業まで遊び呆けろ」
相変わらず声も出ない僕に一方的に告げて、母に挨拶をするとすぐに出てくる。
スポーツカーにスラリとした足から鮮やかに乗り込む姿は、綺麗というより格好いいが相応しい。
「たまにはお茶くらいしてけばいいのに」
「店に欠食児童どもが群がるから」
ディナータイムの仕込みはまだ終わっていないと切り捨てる志乃さんを止めるでもなく、母は肩を竦めていた。
手短にしかモノを言わない志乃さんが少し迷って、それとと付け加えて僕を見る。
「全部は出来なくてもいい、出来なくてもいいが身に付いたことは自覚しろ」
サングラスをチャキリとかけながら、その証と対価が手にしている分厚さだと言う。
生活費と制服のクリーニング代をさっ引いたがと茶目っ気を出してニヤリと笑っていたけれど。
だから、その意味を考えておけとだけ言い残し。
ブオンと音を立てて車を発進させていった。
「そうですか」
始業式が終わってからすぐ部室にいくと、後輩さんが熱心に絵を描いていて。
後輩くんもうんうんとデザインを考えていて。
後輩ちゃんに勧められて夏限定のお菓子をおすそわけしてもらいながら、経緯を話して。
それでようやく返ってきた反応がそれひとつだった。
「なんだったんだろうって、思ったんだけどな」
僕としては驚くことばかりで、何をさせられてきたのか話してみれば少しは話の種にもなるかなと思ったのに。
全員からの反応が薄くて少しガッカリしてしまう。
「私はなんとなくわかりますけれどね」
「そうなのかい」
「そうなんです」
未だになんの意味があったのかわかっていない僕は難しく考えすぎているのだろうか。
一年生三人組もよくわからないと言うけれど、望月さんはどうして僕だけ連れ出されたのか。
どこかに心当たりがあるようだった。
「絵を描いてみればわかりますよ」
「そうなのかい」
「二度もやりませんよ」
そこでようやくクスリと笑った望月さんが言うには。
どんな仕事をしてきたのか、絵で描いてみればいいんですとの事だったので描いてみた。
「出来た」
「素敵な喫茶店ですね」
これが嘉瀬先輩が奉仕してた喫茶店の様子ですかと訊かれ、そうだよと返す。
特に明るいわけでもないその絵は志乃さんの理想にしていた喫茶店で。
重たい音をかけながら時間を刻む時計は整備が大変だと言いながらここにはこれしかないとも愚痴っていた大きな時計と。
ドアベルのやさしい音、思い返せばすぐにでも脳裏に響く。
部員の皆は恒例になった海に今度こそ海水浴に行ったと言われて。
それぞれの作品を見せてもらって、一人置いてけぼりにされたことを思い出したりはしたものの。
すぐさま構図を書き起こして、整ったら手早く色を乗せていき。
ひと段落したところで筆を置いてから、違和感を覚える。
構図とか視点距離とかモノのあるなしとか、そういう絵の技術的な事ではなくて。
「あ」
そこでようやく、夏休みが開けてから数日しか経っていない事に気づく。
格段に絵を描きこむ速度が速くなっているのは、このところずっと喫茶店での仕事に必死だったからか。
そう結論付けようとして、そうじゃないと思い直す。
向こうにノートはもっていって、ある程度の発散はしていた。
こうしようああしようというアイデアには溢れていたけど、そうじゃない。
じゃあ働いていた内装を絵にしたからか。
これも違うとやっぱり首を振る。
この速度の正体は何なのか。
志乃さんから仕事は最低限の事しか言われていなかったけれど。
「質問の意図を汲み取ろうとするのは上手いが、体とアタマの処理が追いついてない」
仕事が終わって上機嫌で質のいいワインが入ったとコルクを抜きながら、そんな事を言っていた日があった。
別の日を遡る。
「やりたいことと試してみたい事はひとつに絞れ」
「最低限のラインとやってみたい事はわけて組み立てろ、かえって手間だ」
「文字にもおこせ、整頓しろ」
大抵お酒をちびちびと飲みながら「絵についてはともかく仕事の事ならわかる」と前置きして話していたのは、酔った勢いからだろうかとふと考えて。
あの人は本当にと思いながら、ありきたりだけど大事な名前を絵につけた。




