継承
その手紙を最後まで読んだ時。
そうか、と冷静に受け止めて。
ああこれは、と納得して。
仰げば尊しが遠く遠く、かすかに流れてくる校舎の中。
呼ばれていた部室で一人、先輩から託されたなんの飾り気もない鍵を握り締めて。
とめどなく溢れてくる涙を拭きもしないまま、ずっと手紙を読み返していた。
先輩が残してくれた想いを、ずっとずっと握り締めるようにして。
最上級生になるという中、僕の教室での扱いは変わりつつあった。
今までは柊先輩が後ろにいる、ということで表立っていじめを受けることはなくなったけれど。
そういう後ろ向きな事ではなくて、僕自身の評価が変わりつつあった。
今までいじめでしか関わりがなかったことや、誰も味方がいなかったこと。
僕もそれでいいと甘んじていたことがかえって仇となり、誰も話かけてはこない。
大きな賞を何度も取ってきて、どうやらすごい奴だと言われるようになっていて。
話してみたいけれど、共通の話題はない。
聞いてみたいけれど、気まずい。
そんな戸惑うような雰囲気の中で勉強を続けて、授業が終わったら早々に部室に向かう。
「いまさら何を」
そんな教室の様子を語ると、望月さんはと言えば呆れた様子で言う。
「そうなのかい」
「そうなんです」
筆とパレットを置いて、完成品を見せてくる。
直したらいいところはあるかと尋ねられて。
視線を本から引き剥がして、望月さんの作品を見る。
「先輩がすごいことなんか、最初からわかりきっていた事じゃないですか」
「絵のこと以外は大したことしてないよ」
「そうかな、成績も安定していて推薦も取れそうだと聞いているよ」
唐突に会話に混ざってきたのは、いつものニコニコ笑顔の校長先生だった。
「推薦をもらったとして、そこで何をするのか決めていないと意味がありません」
「柊君かな?」
「はい」
返した言葉もまた、先輩が以前言っていたことだった。
「資料棚を処分したけれど、部室の使い心地はどうかな」
「ずいぶん広くなって、贅沢させていただいています」
前半分から、部室を見渡す。
僕が色々賞を取るようになって、部費や予算を見直すとのことで。
その一環で部室を半分に隔てていた資料棚を処分する事になり、とても広くなった。
望月さんが一生懸命に描く姿が前にいても見られる状態で、僕もお茶を一口。
部室に残されていた雑多な本のうち一冊を片手に、奥の席に座る。
「どれだけすごかったのかを物語るばかりだね」
「偉大な背中です、追うのにも必死になりますよ」
望月さんに変えてみてはどうだろうかという点をいくつか提案して、居住まいを正す。
「というか嘉瀬先輩」
「なにかな」
「絵は描かないんですか」
賞状をもらった作品を描いてから日があいていて。
僕の中では作品を描かない日があることは珍しいことではあっただろう。
以前であればラフでも模写でもらくがきでもなんでもしていたに違いない。
けど、それだけではダメだと思ったから。
誰より尊敬してやまないあの人が示してくれていたから。
「そうだね」
肩をすくめてそう返す。
不安になることはいっぱいあるけれど、描くだけではわからないことも。
それ以外の事で、もっと別の視点で。
門外漢でありながら的確な助言をくれていたあの人は一体、どれほど膨大な知識を持っていたのか。
「そのうち描くよ」
気が向いたらね、という意味に取ったのか望月さんはむくれていたけれど。
校長先生は彫りを深くして笑っていた。
僕も、笑っていた。
ひとしきり笑い合うと、校長先生が席を立つ。
「お帰りですか」
「ああ、君たちの後輩になる子達の資料を整頓しないとね」
「来るとも限りませんよ」
「来るさ、君がいるのだもの」
意地の悪い返しだったとは思う。
自覚的にそうしていることも理解の上だ。
校長先生もそれをわかっていて、茶目っ気を出して応えてくれる。
「いい絵描きが、いい先生でもあるとは限りませんから」
「その自覚があるのなら大丈夫だと思うけれどね」
仕方ないなぁと、校長は肩をすくめる。
「そういうちょっとねじくれたところ、柊君に似ているよ」
「褒めてますか、それ」
「褒めているとも」
このやりとりも一度やってみたかったと語る校長先生を苦笑いで見送って。
読んでいた本へ視線を戻す。
望月さんは出来ました、と持ってくる。
部のアピールコーナーの冊子に、望月さんの絵が入った。
上手に出来ているよと言ったけれど、望月さんはまだ質問があるのか離れない。
「正直なところ、入部希望者が来たらどうするんですか」
「おや、まだそこはわかってくれてなかったみたいだね」
ちょっとだけもったいぶって、この席に座っていた先人を真似てみる。
似てないですよといいながら堪えきれず、噴き出してしまう望月さんを見て心の中でよしと思って。
「僕は、絵が描けたらそれでいいんだ」
どんな環境でも、どんな人がいてもいい。
自分さえよければいいとまでは思わないけれど。
僕はあと一年、これまでと同じように自由に絵を描くつもりでいる。
逆境に負けないように、最低限のものだけを守り通して。
評価してもらえたらいいなと思う程度に好きな事が出来れば、十分に幸せだ。
「ヲタクなんて、そんなもんだよ」
よくわかりませんなんて眉をひそめる望月さんに対して。
僕は黙って微笑みを返した。




