停滞
心が折れるときというのは実にわかりやすく、かつ物理的に音までするような感覚に陥る。
アキレス腱がきれた時に音を自覚するようなものだろうか。
その日、食事もロクにとれたものではなく、ふらふらとベッドに入って、いつの間にか眠っていた。
気が付けば起床する時間だった。
陰鬱な気分だったが、起きねばならない。
妹はすべてを自力で済ませて家を出た後のようだった。
きっと顔を合わせるのも嫌だという事なのだろう。少しばかりほっとしてしまっていた自分にも罪悪感を感じる。
それでも、と体にムチ打ってどうにか登校すれば、好奇の視線と悪意に満ちた罵詈雑言を浴びせられる。
これもどうにかしのいでいざ授業が終われば、いつもより校門が遠い。
明確に狙って投げられたボールが勢いよく当てられる。
怖くて、悲しくて、悔しくて。
もう投げられたほうを見る気にもならなかった。
帰宅しても誰の気配もない家でさっさと自室にひきこもる。
食事は時間をずらした。
自分の存在が妹に迷惑をかけているとなれば、あれ以上の暴言が待っているに違いない。
そう思い込んだらもう駄目だった。
異変に気付いた両親からは慰められたものの、学校に通う事を強制されるでもない代わりにもうちょっとだけ頑張ってみろ、あと少しで卒業できるのだからと言われはしたものの。
もはや言葉はなんの慰めにもならなかった。
そうして苦痛を受けたまま授業を受けては帰り道にボールも投げつけられる生活を続けて、食欲を失い自分を見失い、その結果は絵に明確に出た。
「なんだこれ」
何を書いていたのかわからない。
ふと最近のじゆうちょうの中身を振り返ると、何をモチーフにしてどうやって書いたのかまったくわからないものばかりだった。
拙いとかそういうことですらない。
何のキャラを描いていたのかすらわからなかったのだ。
「…」
でも、捨てることはできなかった。
じゆうちょうの中身を一冊ずつ振り返る。
当然、篠宮君に見せて褒められた一枚に出くわす。
「……………」
迷った。
本当に、この一枚が発端だった。
だから迷った。
ひょっとしたらこれをしてしまうとコンテンツそのものが嫌いになるかもしれない。
それどころか描くこと自体が嫌いになるかもしれない。
大好きなものを自分で否定する事になる、これほど苦痛なことがあるだろうか。
だけど、もう駄目だった。
折れてしまった心は後から接着剤でつけることもできるだろうが、折れた事実は変わらない。
その一枚を無造作に破り取り、誰もいない深夜のリビングに鎮座するゴミ箱に捨ててしまった。
次の日から、顔だけを無表情で固定したまま乗り切った。
内心びくびくしながら投げかけられる罵詈雑言に耐えて耐えて、そうやって授業とその後の事を乗り切る。
何度か篠宮君を見かけることもあった。
こちらに視線を感じることもあった。
けど僕は、怖くてそちらがみられなかった。
彼と視線を合わせる事すら恐怖を感じて、終始うつむいたまま過ごすことに慣れてしまった。
妹ともロクに会話すらできなかった。
それどころか両親がいるところで聞こえよがしに悪口を言われてしまうこともあった。
見も知りもしない同級生に投げかけられる言葉よりこれがよっぽど堪えた。
だから食事の時間をずらしたり、できる限りリビングにいないようにしてすごすごと自室へ戻る。
そんな生活が続いた。
さすがに見かねたのか、ある時父から書斎に呼び出された。
どうしたのか、なにがあったのか、仔細を尋ねられたが応える気になれなかった。
何が原因で、誰が原因で、どうしてこんなことになったのか。
手掛かりがひとつもないのだから。
「こんなによく描けているのに、それをお前が捨ててしまった。それが俺には信じられなくてな」
そう口にした父が手にしていたのは、少し前に破り捨てた1ページ。
篠宮君に褒められた一枚だ。
くしゃくしゃになっていてもわかる、会心の出来だったであろう一枚。
それが今や見ただけで吐き気でももよおしたのではないかというくらい具合が悪くなる。
すまんなと前置きした父曰く、どうやら捨ててしまった瞬間を見られていたらしい。
茫然自失で周りに気を配っていなかったので、あの時父がいたことには全然気が付かなかった。
父は勉強のことであればやる気のなさに対して少しは怒ったかもしれないが、と前置きし。
「趣味で絵を描いていたことはよく知ってる。そんなことでいいなら好きなだけやってみたらいいと思っていたさ」
言葉を切ってなお、父は迷っていた。
「それを唐突に投げ捨ててしまったお前に一体どれほど衝撃的なことが起きたのか、想像もできないんだよ」
ついでに「よっぽど見せてくれないのは不満だったけどな」とも漏らす。
確かに家族にすら秘密にしてきたというか、その成果については誰にも何も言ってなかった。
でも、篠宮君にはそれを打ち明けた。
どうしてだったのか、今となってはわからない。
「誰かに見せたって自慢できると俺は思ったけどな」
無理強いするのも違うよなと言った父はとても疲れた顔をしていたと思う。
わめくことすらせず俯いたままなにも口にしない僕に「気が向いたら教えてくれ」と言って、そのままそっと書斎から出してくれた。
たまたま部屋の外にいたのであろう妹は、ぼくを見ると露骨に嫌そうな顔をして自室に飛び込んでいった。
妹は悪くない。
父だって理解を示そうとしてくれた。
母も心配こそすれ、僕から話すのを待っているのであろう、何も言ってこない。
ここにいる誰にも悪意はない。
だけど、澱んだ心がそう簡単に戻ってくるはずもなかった。