空色
海へいって、ジョークで海と鮭を描いてしばらく。
まだ暑い日が続く中で、セミがジワジワとなき続けていて、少々昼間の部室は騒がしい。
セミの大合唱の中、今度は顧問の先生を呼んで、近所の山へ入ろうという話になった。
最初は渋々と言った様子の先生だったが、何やらゴニョゴニョと先輩から耳打ちで説得を受けてからというもの、やる気十分で準備に参加していた。
いつ行くかの予定を決めて家に戻ると、すぐにドラム型のバッグを用意した。
「へえ、キャンプでも行くの」
ゴソゴソと準備していると、母からそんな声がかかった。
そんなトコと告げると、薬箱から虫除けと道具箱から懐中電灯を渡された。
「ないと困るけど、あって困るもんじゃないから」
そう口にした母に触発されたのか、父もなにやら大きな筒型のバッグを持ってきた。
「型も古いし最近使えてないけど、持っていけ」
「こんなに大きいのがあったの」
「俺がずいぶん昔に買って、ずっと家にあったもんだ。説明書も一緒に入れてあるから、使ってみな」
簡易ながらも天体望遠鏡らしく、どっしりとした重みがあった。
他にもアウトドアが趣味の父から保温バッグや簡易折り畳みの椅子を手渡されて、荷物がずいぶんかさばってしまった。
一晩行って来るだけなのに、ちょっと重たいなとは思ったけれど。
僕の荷物はといえば元からスケッチブックくらいのものなので、まぁいいかと全部持って行く事にした。
準備を終えて、夕食を食べたらそのまま再び学校へ。
すでに準備を終えていた先輩と、顧問の先生が車のエンジンを噴かして待っていた。
「じゃあ、行こうか」
タンブラーでコーヒーを味わっていた先輩の一言で、すぐにも出発した。
すぐ近くにある場所というか、山の上なので一時間もかからずに到着した。
駐車場のような、休憩スペースという形でトイレがついているエリアに車を置いて、
もうすっかり陽の暮れた山に降り立つ。
「昼間の暑さが嘘のようだね」
そんな事を言いながら自販機でホットコーヒーを買いなおし片手にぬくぬくとしたまま空を見上げて、もう星が瞬いているパノラマの景色に息を呑む。
イーゼルとカンバスをもってくればよかったかな、とは思ったものの。
先日の鮭と違って念入りに描いてしまって、動く星の位置にオロオロするうちに夜が明けてしまうと思いなおす。
この光景は、絵では描けないのだろうな、と不思議と納得してしまった。
スケッチをサラリと済ませて、天体望遠鏡を組み立てて。
嘘みたいに寒い中で真夜中を迎える。
自販機でコーヒーを買い足したり。
スケッチを開いてもう一度描いて見て、位置の違いで地球は回ってるんだななんて思って見たり。
不思議と僕ら三人の中に大した会話はなかったけれど。
思ったこともそれぞれ違うのだろうけれど。
見ている景色の美しさだけは、変わらないのかな。
そう思いかけて、父の言葉を思い出す。
『お前から見たものがこう写っていたんだって知ることが出来たのは、嬉しいことなのさ』
ふと周りをみて、望遠鏡を覗いて、父の言葉の意味を初めて理解した気がした。
「同じ景色を見ているとは限らない」
「同じ位置に立って、同じ時間を共有しているのにね」
気がつけば隣に立っていた先輩が、そう口にしていた。
どうしてそれが思わず口から出ていたのかはわからないけれど。
父の言葉の意味を受けて出た僕の答えを、先輩は知っていた。
「自分にしか見えていない景色があって、それをアウトプットする方法は色々あって」
静かに空を見上げたまま、先輩は僕が持っていたスケッチブックを指でなぞる。
「君にとって、絵にすることがたまたま性にあっていたというだけかもしれない」
だけど、と。
それまでの言葉に反するように、両手を広げたままバタリと草むらに倒れた先輩は続けた。
「そのアウトプットするための意志と力は、きっと誰にでもあるものではないんじゃないかな」
私は見る専門だし、と寝転びながら。
やっぱり先輩はくつくつと笑う。
「宗司君」
「なんでしょうか」
僕も横に寝転んで見て、夜空を見上げる。
街中にいるより済んだ空気はよどみなく、星の瞬きを伝えてくれた。
普段は見えない星と星のつながりの近さ遠さを見て、僕は驚くばかりだった。
ここから見ればたったの数センチが、光の速度でもってしてウン百年かかる距離だと言う。
「君が見ている景色がどんなものか、私は知らないけれど」
寝転んだまま、設置された天体望遠鏡のほうを見て、そのまま僕の方に向き直る。
「そのすばらしさを伝えることが出来るのは、君だけのチカラなんじゃないかな」
それはきっと、他にも出来る人がいるような。
自分だけの特殊さはないかもしれないけど。
誰にでも出来るわけではない、特別さはあるのだと。
藍色の空から目を離さないまま沈思黙考を続けても、なお信じられないほど天は高くて。
たった一夜なのに長い夜を過ごしたような、そんな気がして。
空をカンバスのような真っ白が埋め尽くす頃、僕らは夜空と別れを告げた。




