切欠
試行錯誤を続けて幾度となく自分にできる限界を探った一枚は、ようやく目処をつけることができた。
何度やっても未完成で、あくまでも自分が脳裏に描いた理想には程遠い。
でも、今はこれでいい。
いつかそれが出来るだけの技術を身に付けて再挑戦すればいい。
時間がかかりすぎてしまうのは、今後の課題だろうなとは思うけれども。
筆を置いて、自分への挑戦を終える。
あくまでも自分にとっての理想を追い求めて描いた一枚なので、どこまでやったら完成という目標はない。
けれど、今自分に出来うる限りのものを詰め込んで、一区切り付けた。
「うん」
絵の具が乾くまでそのままにしておくとして、部室を出る。
描きながらずっと考えていた。
自分に足りない事とは何なのか。
思い描いていたものとは、やっぱり違うものが出来上がる。
この差は何なのか。
何か自分が知らない技法や技術があるのかもしれない。
そう思ったら、感覚的なものより文字を追って見るという選択肢が出てきた。
部室から飛び出すとあの一件以来、どうも視線がまとわりつく。
先輩はやっぱり有名人だったようで「上手く取り入った一年」という印象があるらしい。
それもまた先輩が伝え聞く限りの噂で、僕が直接それを耳にすることはない。
いじめられていたぼっちの身である僕にとっては、どうでもいいことだ。
視線を無視して歩いて、たどり着いたのは図書室。
カウンターを突っ切って、その奥へ。
美術関係の本を探す。
あれとこれとそれとと何冊も手にとって、室内の席に積み上げる。
アテはなかったが、とにかく情報が欲しかった。
今の状況というより、今の自分からもっと理想に近いものを描くためにはどうすればいいのか。
具体的な方法を探すほかない。何冊も開いては本棚に戻すを繰り返した。
そうして、数日かけて山ほど積み上げた本を総ざらいして。
「そうか」
何冊目かはわからなかったが、今まで自分ではやっていなかったことや知らなかったことが出てきた。
それをピックアップして、何冊かまとめて図書室から借りて行く。
部室に戻って、もう一度本を開く。
もう一枚カンバスを用意して筆を躍らせる。
先日描き上げた一枚はもういい加減乾いていて、手の加えようはない。
だから、新しい一枚にもっと別のカタチを作り上げていく。
本に載っていた事を実践できるのかどうか、それはわからない。
けれど、試して見なくちゃと思った。
自分に出来る精一杯がどれほど底上げできたのか。
これでどれだけ理想に描いた自分の絵が描けるようになったのか。
相変わらず誰かに見せる予定はない。
けれど、自分にとっての挑戦を止めるつもりはない。
ずっとずっと昔から思い描いていたものがある。
それを形にするのが、あくまでも絵だった。
ひとつ、ふたつ。
試したことが成功していく。
みっつ、よっつ。
載っているものとは少し違うが、自分に出来る限界だろう。
納得して次に挑む。
いつつ、むっつ。
やっぱり載っていたやり方とは違う物になったが、これは自分なりに噛み砕いた上で変化した。
ならば、そのままでいい。
ななつ、やっつ、ここのつ、とお。
次々に挑戦して、新しいことを自分の中に取り入れていく。
カンバスを新しいカタチで彩って、想い描いた通りにしていく。
いつもなら試すためにノートを一冊潰しているのに、夢中で描いてそれを忘れている事に気づいたのは。
そうして新しい事に挑戦し終えてそのカンバスにも目処が立つ頃だった。
「嘉瀬君は、いつもそうしているんですか?」
ある時ひょっこりと顔を出した顧問の先生に頷く。
目処がついた作品は、布をかけてある。
描きかけのものは、そっぽを向いて誰の目にも触れない状態にしてある。
使うかどうかも定かでない資料でごったがえしているこの教室で、カンバスの表を隠すくらいはわけもなかった。
「不都合がありましたか?」
「いいえ、ただ…誰に見せる予定もないのかなと」
「それは」
僕はとっさに答えを返すことが出来なかった。
それは当然だろう。
洗練しようと思ったら人の目に触れて評価してもらうのが一番手っ取り早い。
僕にも、それはわかっていることではあった。
見せてくれとせがみ続けた父にはたしかに見せた。
けれどそれは、あくまで理解して歩み寄ってくれる父であったからこそだった。
捨ててしまった絵を評価してくれた父だったからこそだった。
赤の他人に見せるつもりは、その時点では毛頭なかった。
「私はね」
押し付けるつもりはないよと前置きしてから、言葉が続いた。
「あの一枚が完成していたら、すごい絵が出来上がっていたと思うの」
かけられた布が不自然に盛り上がったカンバスを見る。それは、破られた一枚だった。
今の絵を描く原動力になった、一枚。
「加瀬君の身にどういう葛藤があったか私にはわからないけれど」
先生は居住まいを正した。
背筋をピン、と伸ばして真剣なまなざしでこちらを見ている。
「もっと自信をもって、描いて欲しいと思う」
「そう言われても」
僕にとって絵は唯一の趣味で、周りからは理解されないものだった。
級友しかり、先生しかり妹しかり。
唯一応援してくれている父と母から道具を買ってもらうことはあったけれど。
あくまでもそれだけの代物だった。
「もっと自慢していいと思う、だから」
挑戦してみて欲しいと置かれた紙に書かれていたのは、絵画展の案内だった。




