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事件以降イジメが減ったかと言えばそうでもない。
増えてもいないだろうし、一時より全然マシというか。
極端な話、日常がぐらつくような事ではなかった。
正直校長室に呼ばれてまで起きた出来事なんて他人にとっては無関心だったのだろう。
今日もスケッチブックやノートに筆と鉛筆を走らせる。
前回描いたものとは全然違う絵だ。
父に見せようと思っていた物は破られてしまったので、別のものを描いている。
絵についてはちょっと手直しするので待ってくれなどとはぐらかして父を待たせることになってしまったが、それはいいだろう。
納得いくまでやればいいとお墨付きをもらっている。
そういえば絵の具が足りない、と思って机を見ればチョークの粉で極彩色に彩られたカバンが目に入る。
この部室にまで人が追って入ってくることはまずないため、教室を出る前に誰かに悪戯された結果だろう。
気が付いたのが今だったのでまさかと思って左脇を見れば粉だらけになっていた。
これでよくカンバスに付着しなかったものだ。
「はぁ」
諦めとも呆れともはてまた無念ともつかぬため息が出る。
最近はめっきり減ってきたものの、こんな事ばかりだ。
僕はただ静かに絵が描いていられたらそれで満足なのに。
ガラリ、と戸が開く音とともに誰かが入ってくる。
先輩と誰かが話しているようだった。
気になるところだが、絵の具も筆も十分に息づいていて正直かまけていたくはない。
集中して描いてしまおうか、というところで「悪いね」と先輩に中断を告げられてしまった。
何があったのかと隣に移動すれば、校長先生だった。
「やあ、部活中にすまないね」
優雅にお茶などすすっていて、先輩の分と校長の分と。
気が付くともうひとつカップが用意されていた。
「集中しているところをすまないのだけれど、いくつか話をしておきたくてね」
「あのゴリラの渋面なら大歓迎なのだけれどね」
「いくら目の敵にされているとはいえ、そういう言いかたは感心しないかなぁ」
先輩からの横槍を受けて、苦笑する校長の横に座る。
「ほら、こういう子だろう?学年主任とは前々から色々あってね」
「それで、わざわざいらしたご用件は?」
詳しくは聞かないほうがよさそうなので遮る事にした。
逸れてすまないとひと事入れてから、お茶をひと口。
「キミの絵を破ってしまったあの生徒は、しばらく自宅謹慎となったよ」
しばらく。
言葉の意味を考えてから、嚥下する。
「そうですか」
それ以外の感想など持てそうもなかった。
「もうすこし反発されると思ったんだけどね」
「実に、いい生徒だろう?」
「茶化すのはやめてくれ、少なくともこの場にふさわしい言葉ではないよ」
含みをもった先輩の横槍だったが、後から思えばもっともな指摘だったと思う。
「先輩にも言いましたが、僕は絵が描けていられたらそれで十分です」
僕にはそれだけでもありがたい環境だった。
「いらぬ世話と言うやつだったかな」
「いいえ」
首を振って、応えておく。
きっと、沙汰の結果を聞かせに来ただけではないのだろう。
それがわかっていたから返事もして、応じもした。
それで十分だろうと裏手に戻ろうとして
「そうだ、嘉瀬宗司君」
呼び止められる。
「なんでしょうか」
「今度、キミの絵をみせてはくれないかい?」
正直な話、露骨に僕の顔にはどでかく「見せたくない」と書かれていたであろう。
校長先生もああやっぱり、という様子だった。
「そうか、うん、聞かなかった事にしてくれると助かる」
僕の身に何があったのか。
そこまでは知られていないはずだし、誰に語って聞かせたわけでもないので知る由もないはずだった。
だけど、校長先生は表情と一緒にそれを的確に汲んだ。
大人らしいな、と思う。
こういう表情で本心を上手く隠すことができれば、あんなにイジメられる事もなかっただろうか。
「顔に出すぎているよ」
先輩も苦笑していた。
それからしばらくかけて、その絵はひと段落した。
目指したものとは少し違う、全く別の構図。
アイデアをまとめたノートにはあったものの、描かなかったものだった。
十分にかわかして、かばんにひっそりと入れて持ち帰る。
妹がいない食後にリビングにそれを持ち寄って、父に見せた。
「そうか、これが宗司が見せたかった世界か」
「大げさすぎない?」
ちょっと照れていたこともあってか、そんな小さな反発心が覗く。
「そうじゃない」
父は絵を広げて見たまま答えた。
「芸術っていうのは、あくまでその人が『そう見える』ものを写し出す方法だ」
同じ人が描いても全く別のものになる、というのはそういう事だと言う。
上手いか下手かなんて知ったこっちゃないし、評論家に言わせておけばいいとバッサリ切り捨てつつ父は続けた。
「お前から見たものがこう写っていたんだって知ることが出来たのは、嬉しいことなのさ」
「そういうものなの?」
「多少、親の贔屓目はあるかもしれないがな」
肩をすくめて絵を返してくる父になんと返したらいいのかは、わからなかった。




