異端
茫然自失のまま過ごして数日、この間いじめらしい出来事がぱったりと無くなっていたのははたして幸運だったろうか。
原因を探る気も無く、また究明する気力も無いまま過ごしていたためか。
校内放送によって呼ばれている事実に気づくまでしばらくを要した。
我にかえって耳を傾けると、呼ばれた場所は校長室だった。
重い気分のまま校長室の前にたどり着くと、険しい顔をした学年主任が腕を組んで待機していた。
「…入りなさい」
怒ったような、いや実際憤懣やるかたないのだろうか。
憮然とした声で告げられて校長室に入って見ると、居たのは部屋の主だけではなかった。
ニコニコと柔和な表情を崩さない校長先生。
困った顔で視線をあちこちにやる教頭先生。
真っ青なままうつむく美術部の顧問の先生。
部屋の隅でいつものように我関せずのまま文庫本を広げる柊先輩。
そして、囲むような卓の前に一人の生徒がぽつんと座っている。
あれは誰だったろうか。
名前が思い出せない。
顔は知っている。
どうしたものかと困ったまま立ち止まっていると、ガチャリと扉を閉めて最後に入った学年主任の先生が残った椅子に座った。
「どうぞ、ここに座ってくれるかな?」
わけもわからないまま校長の横にあけられていた椅子に導かれ、そのまま着席した。
真ん中の椅子に所在無さげに座る生徒の前になった。
もう一度貌をみても、やっぱり顔を思い出すことができない。
「では、はじめましょうか」
校長先生が一声かけると、慌てて顧問の先生が動く。
何を持ってきたのかと見ればそれは
「僕の絵?」
「おや、わかるんですか?」
「え、違うんですか」
「美術の授業で他の誰かが描いた物かもしれませんよ?」
「あ」
「すみません、意地悪をいいましたね。君の描いた物で間違いありませんよ」
校長先生が笑みを崩さずに言う。
しかし、イーゼルとともに布がかけられたそれは一枚はぎとれば
「これは」
教頭先生が顔をしかめた。
学年主任の先生は絵をにらみ付けている。
顧問の先生は学年主任の形相に怯えている。
柊先輩は、まだ文庫本に目を落としたままだ。
それもそうだろう。ズタボロにされた絵は修復もしないまま置いてあったのだ。
吐き気が出そうになるのをこらえる。
「そうですね、嘉瀬宗司君」
君のもので間違いないよねと確認してくる校長。
どんどん気分が悪くなっていくのをこらえて、どうにか頷いた。
「この絵がこんな事になってしまった経緯ですが」
校長先生が視線をやったのは、柊先輩だった。
文庫本を閉じた先輩はようやく前座が終わったか、と呆れ顔を隠そうともしていない。
「私のコネクションと状況証拠から彼じゃないか、という疑いがあること」
それは、と話を遮ろうとする学年主任を制して先輩は続ける。
「その上で、学校側の記帳を見る限りでも彼だろうと見ていること」
先輩は、ここまでは調べがついていますと口にした。
「それはあくまでお前の勝手な推測だろう!」
我慢しきれないと声を荒げたのは学年主任だった。
日に焼けて黒く、いかついこの先生が怒ると迫力と凄みがきつい。
あまりの剣幕に美術部の顧問の先生は小さく悲鳴をあげていた。
「だったらこれを他に誰がやるのかというお話ですよ、先生」
驚くでもなく、怯えるでもなく、あきれた様子のままの柊先輩があっさりとそう返した。
「決まってる、こいつが自分でやったんだろう」
こちらに指をさす。
何が起きているのか全く把握しきれていない。
「鍵の管理は職員室、出納帳の記載、時間、状況証拠は彼でしかないのにですか」
「こいつの評判は聞いている。不真面目でやる気が無い」
授業の様子もどこか呆けていて活気が感じられんとまで言われてしまったが、それより何故あの生徒が座っているのか。
どうして僕がこの場にまで呼ばれたのか、なんで犯人探しが終わっていて、学年主任と柊先輩が対抗しているのか。疑問ばかりが先に来て罵倒されても気にならなかった。
「聞けば以前は絵を描くのが趣味だったそうだな」
それは確かにそうだ、ノートは山ほどある。
学年主任は、形相を深めてさらにこう付け加えてきた。
「なら気にいらない作品は捨てるなり破くなりくらいするだろう」
最初は、何を言っているのか全くわからなかった。
でも、思い出す。
初めて他人に見せた絵。
学校で槍玉にあげられたこと。
そして、その絵を棄ててしまったこと。
今言われたことがリフレインして、吐き気と悪感情でどんどん視界が滲んでいく。
少なくとも、自ら棄てたのはあの一枚だけ。
自分の事を否定されたような気がして、耐え切れなくなって棄てたあの一枚だけだ。
なのに、まるでそうするのが当たり前であるかのように。
それを、まるで見てきたかのように言われてしまう。
怒るに怒れなかった。
捨てたことがあるのは事実だし、そうじゃないと反論したくてもできなかった。
怒りより悲しみが先に来て、思考を真っ白に埋め尽くしていく。
どうしてそんなに否定されなくてはならないのか。
どうしてそんなに言われなくてはいけないのか。
僕が何をしたというのか。
もう何度も考えたはずの思考が、ずっとぐるぐるとループを続けるばかりだった。
大声で泣き叫びたい気持ちをこらえて、嗚咽が出始める。
「それは、どうかな」
そんな声が聞こえてきたのはその時だった。




