回想
大学の講義が休校になるとはいえ、課題はある。
普段から筆を持とうとすれば必然、それは練習だし日課だ。
これを忘れずにこなした人間だけがちゃんとした積み立てを提出する。
作業的だが、どこの学校でも長期休暇の課題なんてそんな認識だ。
だから、何から手を付けるか考えるところからスタートするのもどこにでもある光景だろう。
「海、いこっか」
暑さに負けて扇風機の前を陣取る沙月さんがそんなことをのたまう。
部屋の中で日の当たらない所にいてもなお、暑さでぐったりしてしまう。
「急にどうしたの」
「行きたくなった」
スケジュール帳を開いて急を要する予定がない事を確認する。
あと数日はいいだろう、今日一日羽をのばしたところで咎められることもない。
「暑いもんね」
カンバスから離れて、冷蔵庫から麦茶を二人分。
リビングに戻るともうバッグに色んな物を押し込んでいるところだった。
「善は急げって言うじゃない」
「場所は」
「決めてあるわよ」
心当たりがないでもないが、行きたいところがあるのならとついていく事にした。
着いたのは人混みから外れた海岸、ひとけのない砂浜だった。
「懐かしい」
「先輩からここがいいって聞いてたから」
なるほど、口に出るほど勢いに任せたのかと思ったらそうでもないらしい。
僕はと言えば、ひなびた売店で借りた釣竿を背負っている。
「釣れるの」
「先輩が釣ってたけど、どうだろうね」
なにそれ、と沙月さんは笑っていたけれど。
「何か言う事は」
「綺麗です、とても似合ってますよ」
水着姿にテンプレートなやりとりをして、砂浜を元気に駆けていく沙月さんを見送った。
何年振りかの桟橋は相変わらずだったけど、ぎしぎしと嫌な音を立てながらも水面に寄せてくれる。
ここでいいか、とクーラーボックスを椅子にして座る。
太陽はまだ高くて、照り付けてくる日差しは厳しい。
沙月さんが自由に泳いでいるのを遠目に眺めながら釣り糸を垂らす。
相変わらず周りには誰もいない。
向こうに大きな海岸が広く取ってあって、観光客は軒並みそちらに行っている。
相変わらずナンパの心配もない場所だった。
「俺のだからっていうテンプレ、やってほしかったけどね」
水分補給に戻ってきた沙月さんにそんなことを言われたが、彼女の中で僕はどういう人物像なのか。
若干の困惑が残るまま釣り糸に針を結ぶ。
沙月さんにははっきり言わなかったが、理由は簡単だった。
先輩はあの時ここでクーラーボックスを尻に敷いて椅子代わりにしながら釣り糸を垂らしていた。
何を考えていたのだろう。
進路についてだろうか、部の行方についてだろうか。
あるいは何を見ていたのだろう。
海を見ていたかもしれないし、釣竿を無心に眺めていたかもしれない。
どうしてか理由を知りたくなった。
本人に訊けばいいじゃないかとも思ったけれど、自分で試してみたくなったから。
誰に言われるでもなく釣り糸をまっすぐに見つめた。
「―――」
ちゃぽん、という音とともに釣竿がしなる。
ぐいと引っ張り上げてみれば、小さな魚がかかっていた。
クーラーボックスを持ってきているくせに、中身は瓶ラムネだ。
魚を入れる場所がない。
あの時と同じように、瓶を傾けてラムネを飲んでみる。
一年目の先輩は釣り糸を垂らしながら餌も針もろくにつけていなかったんだっけか。
二年目はちゃんと釣っていた気がする。
三年目に後輩たちはどうしていただろうか。
回想できることはいっぱいあった。
今はどうだろうか。
少し迷って、針から抜いた魚を海に戻してやった。
静かに水面から遠ざかり、深い蒼の中に消えていく。
それを見送って、釣竿を引き上げて。
沙月さんが休んでいるパラソルに戻る。
「もういいの」
「十分」
パラソルの下、というだけで十分に涼しい。
水平線を眺めながら、ラムネを取り出す。
「私も飲む」
二人して瓶を傾けて、だんだんと傾いていく太陽と水平線を眺める。
観光客は向こうの大きな砂浜にいるから、二人占めと言うべきだろうか。
特に続くような会話もないまま、日陰で過ごす。
「ねえ」
「なに」
暑さが和らいで、辺り一面が茜色に変わっていく。
そのうち群青色になって、深い紺色から黒に染まっていくのだろう。
「何が釣れたの」
「釣果はないよ」
小さく笑ってクーラーボックスの中身を見せる。
「そのわりに餌とか針とか、ちゃんと準備してたじゃない」
「したね」
「じゃあやっぱり、何か釣れたんじゃないの」
ゆっくり考えて、考えて。
水平線の向こうに日が沈むのを見送る。
考えているよりも単純だったかもしれない。
「そうだね」
あの時のことを思い出しながら、順番に語って聞かせる。
全部話し終えて見ればラムネの瓶は全部空っぽだった。
「知りたい事のためか、見たいもののためかはわかんないけどさ」
砂浜から離れて、電車に乗って、降りてからアパートの一室に戻るまでの道すがら。
全部聞き終えた沙月さんは楽しそうで。
月光に照らされたアパートの階段をひとつひとつ登っていく。
「宗司にしかわからない事もあるんじゃない」
そう言いながら部屋に戻っていった。
鮮明だったはずの記憶が陽炎のせいか、記憶の彼方のせいか。
うすぼんやりと霞がかっていた理由が判ったような気がした。




