幕間12・鹿目祥子
最初にその子を見た時は何とも思わなかった。
何と無機質に滑るのだろう。
それくらいの感想。
それだけの見た目。
見る目が変わったのは、演技のある一点だった。
呼吸をするように切り替えていく。
澱みもなければ躊躇もない。
これだ、と思った。
どれもこれも試金石ではあったが、彼女はきっと他にない輝きを持つと判断した。
この子を預かって何年になるだろうか、はたして大成した。
盤上で可憐に踊るだけなら長年スケートをしてきた熟練者であれば出来る。
プロになる以上はそこから先が求められるもので、それが何かを理解した上での積み重ねが必要になる。
ここからが勝負だ、と判断した。
今まで言語化できていなかった部分をもっと仔細に伝えて、出来ることを増やさなくては勝負にならない。
演技の糧になる事を勧めるべきだと思う。
しかし、それをどう伝えたところでかみ砕くのは当人だ。
こちらだけが熱を上げても意味がない、その意味では他の候補より不利にも思える。
何しろ滑る事とはあの子にとって歩くことと変わりなく、日常で、呼吸も同然だ。
今日は練習を休みにしようと言ってもスケートリンクにやってきて、何を練習するでもなく滑っていく。
「さあ、わかんない」
なぜそんなに滑りたがるのかを前に訊いたが、返ってきた答えは要領を得ないものだった。
そういう浮世離れした雰囲気をもつ彼女だからこそ見込んだので、そこに関しては何も言わない。
それを演技に繋げて、武器にさせてあげられない私の指導不足という事だろう。
なんとも歯がゆいと思うほかあるまい。
磨けばダイヤになるとわかっているのに、磨くための方法がわからないのだ。
他の指導者に預けるべきだろうかとも考えてはみたが、ダメだ。
あの雰囲気をまとっているからこそここまで来たあの子が、よっぽど他の人間のもとで更なる力が得られるとも思えない。
足りないものがなにかを探す、まるで旅のような時間が続いていた。
変化があったのは、大学に入って以降の事。
確実に力を増してきていて注目度も上がってはいるものの。
言葉に出来ない部分ですっぽぬけた指導にぽっかり穴が開いたままなのは変わらなかった。
たまには環境を変えてみるかと尋ねてみて、どこでもいいよといういつも通りの返事が返ってくるのを確認して、別の大学にあるスケートリンクを抑えた。
地元紙が騒いでスポーツ記者もやってきたが、練習中邪魔になりかねない所ではお断り。
練習後にインタビューだけならという条件で待機してもらった。
それがどうだ、ある日突然彼女は脱走した。
何がいけなかったのか。
何が悪かったのか。
記者とどこにいったのかと頭を抱えていたところ、彼女はあっさりと戻ってきた。
「さあね」
練習中は別段楽しくなさそうで、さりとて演技はしっかりこなす彼女がなにやら楽しそうな雰囲気をまとっていると気づけたのは果たして何人だろうか。
少なくとも私に脱走した意味は分からなかったが、あの子にとっては何かしら成果があったのだろう。
何かためになる事があるのならと、日を見て再度貸し切りを申請した。
意味が分かったのも、ほどなくしての事。
とある記者と親しげに話して、スケートリンクを見学に来た青年がいた。
たった一人だったので邪魔にもならないだろうと見学の許可を出すと、青年は首をひねったまま見学を続けた。
それでは見づらいのではないかと思ったが、彼はずっと頭を傾げたままガジェットに何やら描いている。
どういう意味なのだろう。
わからない、理解できない。
しかし、これだとも思った。
練習が終わった後、彼の後ろに回ってそれを覗き込む。
そこには、氷上で踊っているあの子の姿が精彩に描かれていた。
「なるほど、的確だね」
氷上での演技という物は一人である。
誰かの手も借りず、孤独に様々なものを表現していく。
その孤独と美しさを表すには十分的確だろう。
練習のまとめを彼女に言い渡して、インタビューを済ませる。
全部終わって解散していく記者の中に見覚えのある姿があったので一声かけてとどまってもらった。
「凄いんですよ」
聞けば彼は美術系の学科に籍を置く期待のホープであるという。
何かシンパシーでもあったのだろうか。
才あるものにしか理解できない何かが二人の間にはあったのかもしれない。
聞いてみて濃い経歴の持ち主である事は理解したが、それがどうしてあの子の興味を引いたのかはわからなかった。
しばらくして、練習メニューの見直しに大学の構内を歩いていた雨上がり。
突然声をかけられて、驚いたまま振り向くと先日見学に来ていた彼が、カンバスを抱えたままそこにいた。
「あの子の先生ですよね」
それは間違いない、私の事だ。
答えると彼は布のかかったカンバスを私に差し出した。
「これをお願いします」
「どうしろと」
「彼女にこれを見せればわかります」
この青年がどういう人物像であったか、記者に言われた事を思い出す。
変わった人物である事には違いないが、何か彼女に伝えるべきものがあるとわかっているから私に頼むのだろう。
悪意はなく、ただ風変わりな絵である事を確認して向き直る。
「この絵でいいのね」
「間違いなく、これを」
きっと彼女は理解できると思います、と言い残して彼は去っていった。
どういう意味なのかは私にはわからない。
わからないが、きっとこれは転機なのだとも思えた。
言葉に出来ない部分を彼が埋めてくれるのかもしれない。
私がついぞわからなかった部分を、彼は知っているのかもしれない。
そう思ってあの子にこのカンバスを見せた。
一緒に来ていた記者がしきりにすごい絵だと驚いていたが、彼女には何かが伝わったのだろう。
練習に戻るでもなくスケート靴を脱ぐでもなく、彼女は氷上からその絵をじっと見続けて数分。
「わかった」
それだけを言い残して、これまでに見せなかった不敵な笑みで演技を始めた。




