性分[上]
雨が降り始めると面倒なのがガジェットへの湿気対策だ。
カンバスを持って歩くこともしづらいので学生にとっては悩ましい時期でもある。
そも、持って歩かなければいいじゃないかと言われればそこまでではあるが。
「嘉瀬君は出来たかい」
瓶底メガネ、というのだろうか。
いつもの曜日に受ける決まった時間に話しかけてくる大きなメガネをかけた人。
いつも変わった絵を描いているのだけれど、どうすごいのか僕にはわからない。
わからないが、評価を受けている以上は相応の技量が必要なものなのだろう。
なら、自分にできないものである事に変わりはない。
「先週の課題なら、とうに」
「早いなぁ、それでも十分なクオリティが約束されているのは武器だよね」
提出する準備もあるので持ってきてある。
瓶底メガネ君と交換して、相手の絵をまじまじと見る。
どうすごいのかはわからないが、やっぱり一定の技量がいるであろうことは伺えた。
「十分すごいと思うけど、なにか物足りないのかな」
「そう、具体的にどうとは言えないんだけれど」
ここ最近の自分の悩みと似たり寄ったりなのだろうか。
はっきりとはわからないが、よく似た内容であるとは判断出来た。
「何が悪いんだろうなぁ」
ぼやく彼が自分の絵と僕の絵を見比べているけれど、毛色の違う作品で比べてもどうしようもないと思う。
後ろからその様子を眺めていたけれど、結局講師が来るまでの間に答えが出ることはなかった。
いざ講義が終わってみると、もう夕方だ。
一通りの講義が終わってからも校舎に残って色々と済ませる人も多い。
あるいは座学であったり、あるいは実践であったり。
美術大学というだけあって、やっていることはとても手広いし校舎もたくさんある。
火が落ちても電気をつけて課題をこなす生徒だっているだろう。
負けてはいられないが、何が不足しているのかわからない状態では進めない。
「よし」
こういう時は全く違うことをやってみようかと思って、敷地内を歩く。
いつもなら敷地をモチーフに絵を描いているところだが、今日はそれも止め。
昼ご飯は沙月さんとテラスでとったりもするが、あいにくの雨なのでこれまた中止。
いつぞやのように絵から離れてしまおうかと判断して、図書館に入り込む。
絵についての歴史書から技術書までいろいろあるが、この際それもどうでもいい。
何でもいいから全く触れてこなかったものをつついてみようと思った。
なので、図書館の中にあった書籍のうち何冊かを手に取って席に平積みする。
読んだことのない本、見た事のない内容を目に焼き付けて見たくて幾度か読み返す。
でも、そこまでの目新しさがない違和感に気づいて手が止まる。
これでいいのだろうか。
もっと違うことをすればいいのだろうか。
そろそろ絵に戻るべきだろうか。
たった数時間離れただけで不安が鎌首をもたげてくる。
自分がおかしい事には自覚があったが、解決策が全く見当たらない事への不安ばかりが大きくなる。
雑誌なんかも手に取ってみたが、そうではないらしい。
インスピレーションは沸いてこないし、目新しい技術で思いつくこともほとんどない。
俗にいうスランプとはこういう事かとうすぼんやりとした意識で思いはする。
体を動かしてみようか、とさえ考える。
敷地内に何があったのか探す。
そういえば、スケートリンクなんて洒落たものがあったことを思い出した。
商業的に潤っているわけではないが、大学の構内にそんな大げさなものがあるのかと感心した覚えがある。
これはいい機会かもしれない。
「行ってみるか」
運動は苦手。
そういう意識は、このさい投げ出してみる事にした。
しばらくして、やたら広いのにホールでもなければ体育館でもない建物に到着する。
案内に従って歩き回ってみると、人が増えてきた。
何やら物々しく、どうにかして見たいと粘る人も増えてきた。
誰かが使っていて貸し切り状態にでもなっているのだろうか。
「あれ」
少し前ではあるが、お世話になった記者さんがいた。
「あら、未来の先生」
「止してください、何も出ませんよ」
残念、と返されたが出せるものは本当にない。
どうしてまたこんなところにいるのかと聞いてみると、強化指定選手という者がここで練習中らしい。
集中力を乱す元になるので撮影厳禁だが、後から軽いインタビューなら受けていいとの先方の許可を得てここに張り付いていたらしい。
案の定貸し切りで今日は使えないとのことだった。
「こんなところで強化指定って事は」
「そうね、フィギュア選手のホープ」
君とは別方向での才能の持ち主ね、と言う。
関係者以外立ち入り禁止となっているので、基本的に許可を待たなければ中に入ることも許されない。
「先生の学生証があれば通れますよね」
「年齢はともかく性別まで詐称するつもりですか」
うっと引くという事は無茶な自覚はあるのか。
取材のための執念は見上げたものだが、方向性が予想の斜め下に思い切りがいい。
「確かにこうも厳重だと何があるのかくらいは見たいですけどね」
とはいえ、相手に迷惑かけてまでやる事ではない。
学生証を見せた上で記録も何も取らないので見学は可能かどうかだけを確認してみたら、あっさり通れた。
社会人というのは難儀だなと思いつつ、どんどん寒くなる中心部に向けて歩く。
扉を開いたら、だだっぴろい空間に一人だけが踊っていた。
留まることなく時折シャッシャッと鉛筆のような音を立てながら滑るその人は、見覚えのある姿をしていた。




