貫徹
カラン、とひとつ音をたてたグラスが机の上に乗っていて。
ガジェットを前に一心不乱に絵を描きだす。
少しだけ身震いをして、窓を開けっぱなしにしていた事を思い出した。
どうしようかと思案して、結局閉めた。
電話が一つ鳴って、それに出る。
「君が柊さんの話にあった新人くんかい」
そういえば今日はいつだったか、とカレンダーを見直して。
すぐに居住まいをただす。
「はい、嘉瀬宗司です」
「すぐにでも来てくれると嬉しくはあるけれど、何か話があるんだよね」
どうするべきか、心に決めていたことを話す。
この先の事についての電話を肩に挟んで、ペンタブは手放さなかった。
「おはよう、遅いぞ」
「仕事はキッチリこなすのでご容赦を」
大人ぶりやがってと悪態をつくわりに志乃さんは嬉しそうだ。
「沙月さんは」
「もう出たよ」
それだけをしれっと言って、開店準備に精を出す。
僕もそうですか、とだけ返して弁当を鞄に突っ込む。
「多少はいい顔になったじゃないか」
「肚をくくったので」
生意気な奴め、といつもなら返されていたかもしれない。
今日に限ってはその限りではなく、志乃さんは作業の手を止めてじっとこちらを見ていた。
「決めたのか」
「はい」
「ならいい」
素っ気ないけれど、いつも通りの志乃さんに頭を下げて喫茶店を出る。
速足で歩いて、学校について。
いつものように最低限の授業を受けて、弁当をたべて。
準備が終わり次第、特別教室へ移動する。
ガジェットを片手にいくつかのコンテストへの内容を確認して、取り寄せたパンフレットを確認する。
確認が終わったら、やるべきことはすぐにでも済ませる。
日常と変わらないように、いつも通りを心掛けた筆を。
これまでと同じように、とりどりの色彩を画面に乗せていく。
「よし」
ここ数週間としばらく時間はかかったものの、確かにそれは納得できる程度には成った。
こう言うと一方的に聞こえるかもしれないが。
出来上がったものを、やっぱり「これで完成した」とは相変わらず思えない。
それでも、まだ記憶にあるより鮮明に描いて描いて描きつくして。
今のところもう出来る事はないか、今窮められる限界はここだろうかと考えながら筆を置く。
まるでテストの振り返りのように確認を続けてから、それを保存して送信にこぎつける。
ひとつ違う事があるとすれば、テストのように明確な正解がない事だろうか。
気が付いたら陽が傾き始めて。
もうそんな時間か、と周りを見渡す。
いつの間にか来ていたクラスメイトも、ケンカばかりしている特別教室の二人も。
陽炎のようにやって来ては作品を眺めていく後輩ちゃんも、バイトに遅れると促す沙月さんも姿はない。
ふらりと思わず立ち眩みをして、自分の状態を把握する。
鞄の中に放り込んであった水筒でのどを潤して、どうにか立ちなおした。
特別教室の施錠をすませて職員室に鍵を返し、学校を出る。
校舎を振り返って、じっと見て。
もう少しでここでの生活が終わることを実感する。
「どうするかな」
決めた事はある。
でもそれが全部ではないし、一人で決められる事でもない。
相談できるところには相談したし、手は尽くしたはずだった。
なのにこんなにも先行きが不安になる。
これでいいのか、これで満足か。
あるいはまだ足りていないのか、見落としがあるのか。
スケジュールを確認してそういえばと思い立つ。
「そうだ、卒業制作」
コトここに至って先の事ばかりを考えていて、足元がおろそかになっていたと思わざるを得ない。
今日の所はもういいか、と商店街に足を向けて。
ふらふらと駅まで歩いて、もう一度振り返った。
「うーん」
何を描くのがいいだろうかと思って、ありきたりなアイデアを掃いて捨てていく。
「どうしたの」
「来てたのか」
土日だし部活は大会もないから連休だよ、と優美はこぼす。
思わず兄妹ふたりで、駅と商店街の人の波をぼうっと眺めていく。
なんとはなしに人の波が引いていく様を見届けて。
何の意味もなく人の波が再びやってくるのを見送っていく。
「この先どうしようかって」
「なにそれ、らしくない」
また人の波が引いていく。
いつもの一日が終わろうとしているのに、この人の波はまだまだ続いている。
「兄さんはしたいようにすればいいんだよ」
出来ない事には無頓着だったけど、と釘も刺される。
「絵についてはお父さんにもお母さんにも好きにしろって言われてるのに、いまさら何を」
「選択肢の多寡は別にしてもどうするのがベストなのかは別だろ」
ラケットを担ぎなおして、それでもなお妹は笑う。
「それこそ考えるだけムダじゃない」
「無駄?」
「どうするのがベストかなんて、後からついてくる結果だもの」
選択と結果は別物だと彼女は言う。
「握り締めてたって、打った後のボールの落ちる先が変わるわけじゃないし」
ある程度コントロールは出来るかもしれないが、それが試合のさなかで成し遂げられるかどうかは別の話だと彼女は言う。
「この先がどうか心配するより『間違ってなかった』って胸張れる方がいいじゃない」
「急に大人ぶるなよ」
思わず悪態で返してしまったけれども、それはそうだと納得する自分もいて。
「私は出来得る限り、二度と後悔したくないもの」
急に軽口が消えた妹の方は見ない。
でもそこに彼女なりの重たい意味があることはわかるから。
「そうだな」
決めた事に嘘をつかない自分でありたい。
まっすぐ前をみながらそう口にした妹が、ほんの少しだけ羨ましくなった。




