第七話
どうしてこうなったんだろう────なんて考えてもあとの祭りで、気づけば私はあとから相席って形になったその人と二人だけになっていた。そう、二人っきりになってしまったのだ。
私と一緒に来ていたはずの千鶴さんが言ったんだ。「ごめんね、ちょっと呼び出されちゃった」なんて携帯を見せて。そりゃもう申し訳なさそうに「支払いはしていくから、ゆっくりしていって?」なんてことも言ってたけど、たぶん呼び出しってのはウソだと思うんだよね。
もちろん追求なんてできないまま見送ることになっちゃったよ? でも私が思ったことは間違いじゃないなってことだけはわかった。だって千鶴さん、申し訳なさそうな声を出してたけど、その実すっごい笑顔だったから。
だからわかっちゃったんだよね。千鶴さんの言葉はウソで、この状況がお見合いなんだろうっていうのは。
うん。だって千鶴さんが言ったのって、よくドラマとかで見る……仲人さん? のセリフみたいだったんだもん。「あとはお若い二人で」ってやつに似て思えたんだよね。たぶんそれも間違いじゃないはず。だってホントに、疑いたくなんかないけどホントに千鶴さんてば笑顔だったから。きっと私が気づくことを前提にして笑顔になったんだろうね。……ホント、千鶴さんに敵う気がしないです。
千鶴さんのことを考えて、お見合いの時にそのセリフを言われたとしたら断れるのかな? なんてことも一緒に考えて黙り込んでるあいだ、店内は普通に賑やかな感じになってた。午後のお茶の時間帯ってのになってたからね。
でも私とその人も無言でいた。だから私のいるテーブルだけが妙に静かだった。たぶんカフェの中では明らかに浮いてて、別空間な感じがしてたね。
それをその人も感じてたのかな。なんだか少し居心地が悪そうにして、でもそんな態度を私に見せないようにしてる──っていうのが、なんとなく感じられたんだ。
そんなに人の機微を読むのは得意な方じゃないけど、場の空気を読むのはそれなりに場数を踏んでると思う。主に合コンでだけど。
このままこの人と会話しないままでいたら、お見合いはなかったことにならないかな。なんて、アップルパイをフォークで切り分けながら考えてみた。けどそんなことが簡単にはいかないだろうことくらいはわかるし、たぶん千鶴さんは悲しそうな顔をするって浮かんじゃってできなかったんだけどね。
でも自分から進んで話するなんてしたくないし、どうやったら穏便に断れるかな──って悩んでたら、その人が口を開いたんだ。
「その……今日は申し訳ありませんでした」
「え?」
「お二人の時間に割り込んでしまいましたから。ですが、その……」
迷うみたいにして話し出したその人は、ものすごくマジメな人なんだろうってこの時の私は思ってた。
だってすっごく言葉を選んでるし、困ってますって感じに眉が寄ってたから。うん、恋愛感情は芽生えなかったけど、好感は持てた。それに実際すごくマジメな人だってことはこのあとですぐにわかったし、私が感じた第一印象は間違ってなかったんだ。まあ、それも良し悪しなんだけどさ。
けどそんな印象を持てたから、だから私もざっくり本音を言うことにしたんだ。マジメな人にはマジメに返すのが私の常識なのです。
「別に構いません。だってこれ、千鶴さんが計画したんですよね?」
「は、はい。ですが自分は……」
詳しい確認なんてしてなかったけど、でも絶対そうだって確信があったからそう言ったんだ。
そんな私の言葉にその人は迷いながら頷いた。
うん、この瞬間、私が千鶴さんにハメられたんだなあって自覚した。
ちなみに自覚したことによって内心ちょっと落ち込んでたけど、そこはそれ。『お見合い』は諦めるけど、結婚にはできる限り抵抗するんだー! って思ってたからね。それなりに早く立ち直ったんだ。
だからこの時の私は、やっぱり思うまま言うことにした。
「私、正直いうと結婚する気ないんです。だから、千鶴さんからお見合いをしないかって言われても、お見合い自体を断る気だったんです」
まあ、それも無駄だったわけなんだけど……。でも主義主張はしっかりしときたい派の私なので、しっかり言い切ってみた。そうしたらその人はなんだかすっごい悲しそうな顔して見えた。けど、頷いてはくれた。だからまだ主張を続けようって思えたんだ。
「それにお見合いしないって誘われたあとなんの音沙汰もなかったから、冗談だったんだと思ってたんですよ。でも違ってたみたいですね」
「そう、ですね。自分は神保いっ……神保さんから見合いをしないかと聞かれまして、すぐに受けてしまったんです」
私の主張を聞いてたはずなのに、その人は真っすぐに私のことを見て、そして言ってきた。
真剣な顔でそんなこと言われても困るんですが、って思った私は間違いじゃないと思うのですがどうなのでしょうか。うん、わかんない。けど、その人の言葉はそれだけで終わらなかった。
「相手がミチルさんだと伺ったので一も二もなく」
なんてことを、そりゃもうはにかんだ笑顔で言ったんだ。
自分よりも年上の男の人が、照れてそんな顔するところなんてそう何度も見たことない私だったけど、でも正直なところそんなことは気にならなかった。だってまだ名乗りあってもいないはずなのに、その人は私の名前を知ってたんだもん。
知らないはずの人なのに、どうして私は名前を知られてるの? って一瞬思った。けど、もしかしたら私が覚えてないだけで、この人とは会ったことがあるのかもしれないとも思ったんだ。まあ、千鶴さんが言ってたのかもしれないんだけど。
でもそれを考えたら浮かんだのは一つ。ただただ困るってことだけ。
だって千鶴さんだけじゃなくて、私にとっても知り合いかもしれないなら、余計にこのお見合いを断るって難しいんじゃない! って浮かんじゃったんだもん。
そんな自分の保身を第一に考えてしまった私は間違っていないと思いたい。人としてダメかもだけど、でも望んでないことにだったんだから、私がそう思っちゃっても仕方ないよね。
だからそれを確認するために聞いてみることにしたんだ。うん。聞くはいっときの恥で、聞かぬは一生の後悔になりそうだったから──
「……私たち、初対面じゃないんですか?」
てね。そしたらその人はふんわりと笑って、私の目を真っすぐに見てきた。すっごく優しい目で。
うん、なんとなくその人の気持ちが透けて見えた気がしたのはたぶん気のせいだと思いたい。だって友人たちがなんて言おうと、私的には自分には好かれる要素って少ないと思ってるからね。そう簡単に自分はこの人に好かれるとは思えなかったんだ。
けどやっぱり真っすぐに私を見て、そうして一呼吸分間を開けてからその人は言った。
「覚えてらっしゃらないですか? 一月前に神保さんのご自宅に伺ったおり、ミチルさんと自分はお会いしていますよ」
「え? え? ホントですか?」
一月前に千鶴さんちでって言葉にすぐ浮かんだのは、あの大量の料理を作った日。
うん、あの日知らない人たちと話した記憶はある。けど、その人がいたかどうか、ホントに覚えてなかった。イケメンさんは数人いたけど、メガネをかけた人なんていたっけ? って考えてたんだよね。そしたらその人は小さく苦笑いしながら言ってきたんだ。
「ええ。ミチルさんの料理も頂かせてもらいましたし、少しですがお話もしましたね。あの日は本当にご馳走になりました。とても美味しかったですよ」
なんて言って、やっぱり笑顔を見せた。それもどことなく照れたような感じの。
うん、私が話した人ってのは少ないし、ホントによく覚えてなんてないけど、この人が言った『美味しかった』の言い方にはなんとなく覚えがあったし、その照れた感じの笑顔も見たことがあった。だから確認するために聞いてみたんだ。
「……えと、もしかして唐揚げを一番最初に食べた人、ですか?」
「ええ、そうです。憶えて頂けていたんですね」
「えと、まあ……」
「自分は八潮雅史といいます」
私の問いかけに自分の名前を答えたその人──八潮さんは、どことなくどころか、すっごく嬉しそうな顔をして笑ってた。
イケメンさんの笑顔の大安売り。これってたぶん世の女性にとっては素晴らしいもの──なんて言われちゃうものなのかもしれない。けど私には違った。八潮さんの笑顔よりも、その言葉を聞いた瞬間に悟っちゃったから。やっぱりこのお見合いは断れないんだってことをね。
だってその人、笑顔の感じもだけど、物腰とか話し方とかフンイキとか? がすっごく千鶴さんが好きそうなタイプの人だったんだもん。絶対千鶴さん一押しだから、こうやってお見合いが計画されたんだってわかっちゃったんだ。そしてそんな一押しな人を、私に充ててくるってことは、私はホントに千鶴さんに心配をかけてたんだなってわかっちゃったから余計に困った。
私、ホントに千鶴さんに弱いんだもん。
だって千鶴さんは母親よりも私のことを知ってて、優しくしてくれる。でも内心ではこうやって心配してくれてるのを知ってるから、余計に千鶴さんを悲しませることが嫌だった。悲しませないように、千鶴さんが笑顔になれるように頑張ってきてた。自分にできることで喜んでもらえるなら、そうしたいって思っちゃうだもん。わかってる、自分がおバカなこと言ってるって。でもそう思っちゃうからこそ、八潮さんとのお見合いを断るのが難しくなっちゃうんだ。
私としてはやっぱり結婚はしたくない。でもこれから先のことを考えるとあんまり楽観的にはなれないし──なんて風に自分の今後を考えて私が黙り込んでたら、その人は少しだけ早口に言い出した。
「自分はミチルさんとは歳も離れていますし、ミチルさんには不釣り合いだとわかっていたのですが……どうしてももう一度お会いしたかったんです」
「……そう、なんですか?」
「ええ。自分はもういい年ですし、ミチルさんのような若い女性には面白みもないとはわかっていたんですが、我慢が効かず……申し訳ない」
そう言って、ふんわりと笑って頭を下げたその人は、千鶴さんの用意した爆弾の導火線に火をつけた。しかもそれだけで終わりじゃなかった……。
「今日だけで構いませんので、ミチルさんのお時間を、自分に少し分けて頂いて構いませんか?」
「か、構い……」
ますと言いたかったけど、この人の目がホントに優しくて、断ろうと強く思えなくなった。
だってやっぱり真っすぐに私を見てくるこの人が、ホントに私のこと好きなんだって感じちゃったから。
合コンで会うような下心満載な人と違って、会いたかった──って言葉のあとで、笑顔なんて……。うん。なんかムリって思えたんだよね……。私、目には目をじゃないけど、優しい感情には優しさで返すのが当たり前だと思ってるんだ。だからさ、千鶴さんはきっと私が八潮さんにそう思うってことも予想してたんだろうなってわかっちゃったんだよね。
それにさ、私にも予想がつくことがあったんだ。どうしてだかわかんないけど、きっと今この場で断ったら、八潮さんは『捨てられた子犬』みたいな顔するんじゃないかなって。
まったくの他人って言いきれないけど、そんなに親しくもしてないはずの顔見知り程度な人なのに、それなのにそんな顔は見たくないって思っちゃったんだよね。私、犬よりも猫派なのになんでだろ。
だけどすぐに答えを返せなくて、私は迷ってたんだ。ちょっと焦りながらね。八潮さんが火をつけた導火線がジリジリ短くなってきて、いつ爆発するの! なんて思ってたから。
そんな私の焦りに気づいたのかな? 八潮さんは自分で着けた火を消すみたいに言ってきたの。
「その、無理なさらなくていいですよ? この見合いのお断りも、自分から神保さんに伝えますし……ミチルさんは本当に何も気になさらないでください」
敏久叔父さんと、千鶴さんの作戦に流されに流されている状態は私の望むところじゃない。でもそれは私だけのことで、八潮さんは私と会えることを望んでた。なのに、八潮さんは私の意思を尊重してくれるって言ってくれたわけ。
そんな言葉、私にとっては最高の申し出ってやつだったけど、簡単に済むはずないってことはすぐにわかった。だって敏久叔父さんの職場ってのは、体を使う仕事だからかな。けっこう上下関係が厳しいところなんだって言ってた。それも学生時代の運動部系の上下関係に似てるってこともね。
敏久叔父さんの部下のはずの八潮さん。その一存で、上司からのお見合いって断れるのかな? なんて浮かんだんだよね。
「────断れる、んですか?」
「……まあ、難しいかもしれませんが、自分では無理だったと伝えればミチルさんの不利にはなりませんから。ですから今日だけで構いませんから、ミチルさんのお時間を自分に分けて頂けませんか?」
自分の立場が悪くなるだろうってわかってるのに、そんな風に申し出てくれた八潮さん。私にそれが断れるわけなんてなかった。うん……わかってる。やっぱり私っておバカなんだってことは。
私は私にとって、かなり有利なことを言ってくれた八潮さんのその言葉に頷いて、一緒にカフェを出たんだ。うん、千鶴さんが望んでただろう「あとは若い二人で」って状態になったのですよ。
カフェを出て、しばらく歩いて私は気づいた。
「あ……そっか」
車道側には八潮さんが立ち、私は歩道側をのんびりと歩いていたわけなんだけど、それで気づいたのだ。うん、向かいから来る男女二人連れを見たからというのが主な気づいた理由なんだけど。
無意識に声を出していた私に、八潮さんが覗き込むようにして聞いてきた。
「どうかしましたか?」
「え、あ……その」
うん。距離が近いと思ってしまったのは、私が男の人に慣れていないからなのでしょうか。まあ、あのはた迷惑な上司さまよりはよほど紳士的な距離なんですけどね。
なにか気になることが──とか、なにか不満が──とか思ってるのがだだ漏れな顔をした八潮さんを見て、私は正直に言うか悩んだ。けど、浮かんじゃったそれを、やっぱり無意識に口に出してた。うん、私は基本的に口と脳が直結してるのです。いつもはワンクッション置いてから口にするようにしてるのに、いつもと違う状況にテンパってたようです。
「えーと……そういえば私、今してるのが初めてのデートなんだなあって思いまして」
「初めての……ですか? その、ミチルさんは誰かと付き合ったりだとかしたことが、その……」
「ない、ですね」
はい、まったくもって興味がなかったので。なんて言い切れないので、ちょっとごまかすようにして笑って言ったら、八潮さんは顔をほんのり赤くしていた。
うん、イケメンって赤面してもイケメンなんですね。羨ましいなんて思ってたら、八潮さんはぽつりと呟いた。
「そう、なんですか……」
って。うん。なんだか知らないけど、嬉しそうなんですがなんでなのでしょうか。私にはわからないんですが。
どうして八潮さんが嬉しそうなのかわからなかった私は、コテンと頭を傾けながら聞いてみた。わからないことは直接聞く方が建設的ですからね。ましてや八潮さんは私がよく知らない『男の人』なのですからね。
「八潮さん? どうかなさったんですか?」
だけどそれを言ったら、八潮さんは直立不動? てくらいにぴっしり背筋を伸ばして立ち止まったの。うん。なにかあるって言ってるも同然なんだけど、八潮さんの口から出てきたのは、そんな状態とはウラハラなお言葉でした。
「いえ、何でもありません」
「そうですか?」
「はい。それよりもミチルさんはどこか行きたいところなどありますか? 自分は車で来ていますので少しですが遠出もできます」
妙にキビキビ、かつハキハキと言われて、重ねて聞けるほど私と八潮さんは親しくないし、聞かれたくないことなのかなって思ったから追求するのは止めておいた。うん。だってそれよりも八潮さんからの問いかけの方が気になっちゃったんだもん。
「車、で来てらっしゃるんですか?」
「はい、神保一佐から車でくるようにと申しつかっていましたから」
サラッと言われたのはそんな言葉だった。
うん、やっぱり千鶴さんだけじゃなくて、敏久叔父さんも関わってるんだってわかってたけど実際聞くとちょっとショックだったのは確か。でも今さら落ち込むようなことでもないし、そのまま流そうって考えて、聞いてみた。別のことも気になったから。
「イッサ? ってなんですか?」
って。さっきは神保さんって言ってたのに、違う呼び方をしてたから気になっちゃったんだよね。聞きなれない言葉だったし。
「え、あ、その神保……さんは、その自分の上官にあたりまして、その今は直属の上司ではないのですが……その」
そしたら八潮さんはまた、ぴっしり背筋を伸ばして固まって、しどろもどろに言ったんだ。うん、この時が、なんとなく八潮さんの性格が掴めた瞬間だった気がする。イケメンは固まってもイケメンなんだね~なんて思いながら、ちょっと面白かったから追い打ちみたいに聞いてみたのはおかしくないよね? だってホントに面白かったんだもん。
「……八潮さんは突発的なことに弱いんですか?」
「いえ、その……そうではなくて、その今日は緊張していまして……」
「緊張、ですか?」
なんで? こんな小娘に会うのにどうして緊張? あ、そっか、叔父さんの姪だからってことか~なんて思いながら、ついじーっと八潮さんを見てしまった私に罪はないと思う。だってイケメンさんが照れてる姿なんてドラマの中でくらいしか見たことなかったからね。珍しいものはしっかり見ておく方がいいと思ったのですよ。
それから、5分くらいかな? へどもどしてる姿を見てたんだけど、小ちゃく深呼吸みたい息を吸った八潮さんは、さっきまでのハキハキしゃべる八潮さんに戻ってた。なんかつまんないなって思った私もやっぱり罪はないと思いたい。
「申し訳ない。普段は男所帯で過ごしているせいか、こうして女性と二人きりになることがなくて……情けないところをお見せしました」
そんなことを言ってはにかむ八潮さんと並んで、私はカフェの近場にある駐車場まで行ったのです。そして私は八潮さんの車に乗ったわけです。
ほぼ初対面に近い八潮さんの車に簡単に乗ったわけだから、危機感がないっていわれたらそれまでだけど、でも八潮さんがヘンなことしてくるはずないだろうって勝手に思ってたから問題ないはず。事実そのとおりだったし。
そんな八潮さんは私より20センチくらい身長が高そうで、たぶん180は軽く超えてると思う。かなりスラっとしてるけど、仕事柄なのかな。肩幅は広いし、腕も筋肉質な感じがして、ウソでも華奢とは言えないくらい男らしい身体つきをしてると思う。しかも歳が離れてるとか言ってたけど、そんな感じは全然しない。むしろ落ち着いたフンイキが、イケメン要素にプラスされてるようにしか感じなかった。
そんな風に、全身から嫌味じゃないイケメンオーラを出してる八潮さんの車はちっちゃかった。なんというか……八潮さんが乗るにはきゅーくつそうなくらいにちいちゃいのだ。
ちなみに私は車の種類に詳しくないからわかんないけど、車自体は可愛いかったと思う。
色はキレイな赤で、ボンネットの真ん中にベージュとブルーでラインが入ってて、丸っとしたデザインでなんがイギリスー! って感じがする車だった。イギリスの車かどうかは知らないけど、なんか古い街並みが似合いそうなフンイキだったんだ。
車はすっごく可愛いは可愛いんだけど、でもやっぱり八潮さんのイメージには合わない感じがしたね。
だってどう見たって車が体のサイズに合ってないんだもん。乗り込んだら頭のてっぺんが天井スレスレだし、見てる方が心配になるくらいぴったり、ぴっちりしてたから。
や、ホントに車は可愛いんだよ? でも八潮さんにはきゅーくつじゃないのかな? って思いもしたんだ。余計なお世話かもだけどね。
でもそんな車の乗り心地はけっこうよかったような気がする。八潮さんの運転技術がよかったのかもだけど、その違いもよくわかんない。
だって私にとって車は人様が運転してくれるものであって、自分で運転するものじゃない。だからこれまで運転技術に文句なんてつけることなかったし。なんて考えて、ぼーっとしてたら聞こえたのは八潮さんからの声。ちなみに車はその時どっかに向かって走ってる最中でした。
「──がお好きだと聞いたのですが」
「え?」
「ミチルさんは鯨がお好きだと聞いたのですが、海もお好きですか?」
運転しながら問いかけられたのはそんな言葉で、正直どうして八潮さんが『クジラ』って聞いてきたのか、『海』って聞いてきたのかわからなかった。だからただ八潮さんのことを見てるだけになったのに、八潮さんはどこか照れたような顔をした。
「先ほど神保さんのご夫君からお伺いしたのですが……違っていましたか?」
「え、あの……確かに『クジラ』は好きですし、海も嫌いじゃないですけど」
「本当ですか! でしたら今日は海を見に行きませんか? ここからそう遠くないところに綺麗な浜があるんです」
「──えと、はい」
春だけど、まだ冷たい風が吹いてる中、フォーマルぽい格好で海に行くんですか? なんて聞けなかった私は、なんで八潮さんがそんなに嬉しそうな顔してるのかもわからなかった。
ていうか『クジラ』が好きは好きでも、私が好きなのは前の日の食卓に乗っていた『クジラ』肉の料理なんですが、それでも海に行くんですか? なんてことは今聞いちゃいけないんだろうなって思った私は敏いと言えるのだろうか。うん、わかんない。でも確実に八潮さんは私が好きな『クジラ』ってものが、食卓に乗る切身じゃなくて、海で泳いでる方だと思ってるってわかったんだよね。
この時の私は、八潮さんがそんな勘違いをしている原因すら、千鶴さんの仕込みであることに気づいてなかった……。
クジラのお肉が、そんなに頻繁にスーパーに並ぶものじゃないってことも、けっこうお高いものだってことも知らなくて、八潮さんがクジラをどんな風に思っているのかも知らなかったから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。もちろん千鶴さんは、八潮さんがクジラをどう思っているのか知ってたみたいなんだけどさ。ただ単純にどうやったら誤解がとけるのかな? なんてことを考えてた私には、やっぱり罪はないと思いたい。
それからあんまり会話が弾まないまま、車は海に向かっていたんだ。
窓の外を見ながらぼーっと考える私と、真っすぐに前を向いて運転する八潮さんは海に着くまで無言のままでいた。まあ、車内にはラジオが流れてたから、完全な無音じゃなかったんだけどさ。
でもおかしいんだ。無言でも気にならなかったんだよね。ほぼ初対面のような感じでさ、しかも私が得意とは言えない男の人なのに苦じゃなかったんだよ。それが不思議なんだけど、いろんなことがいっぺんに起こったからかな。あんまりそのことに気づかなかったんだよね。うん、次の日になって落ち着いて考えてわかったことだから、この時の私は八潮さんに対して特別ヘンだとも思わなかったし、おかしいとも思ってなかったんだ。
誤解をとくのもそうだけど、こんな時期に海に行ってなにするのかな? なんてことをぼーっとしながら考えてたら、車が止まって、八潮さんからの声がまたしたんだ。
「ミチルさん、少し浜を歩きませんか?」
なんて言葉を言いながら笑顔。うん、なんだろう。どうしてなんだろうって思いながら小ちゃく頷いておいた。
八潮さんがこうも笑顔を見せるのも、千鶴さんの仕込みのお見合いなのかもしれないことも、正解がわかんないこと全部とりあえずどっかに置いとこうと思ったんだ。なにか聞くにしても八潮さんにじゃなくて、千鶴さんにしようってね。八潮さん、突発的なことに弱いんだろうなって思ってたからなんだけどね。だから私はなんにも言わないまま車を降りたんだ。
外は潮の匂いでいっぱいで、駐車場から見えるのはあんまり人のいない浜とキラキラ光ってる海だけ。まあ沖の方にサーフィンしてる人影は見えたけど、それもそこまで多くなかったから、ホントに静かな浜って感じだった。
でも当たり前だと思うんです。だっていくら暖かくなったからって言っても、まだ風の冷たい四月。海に来る人なんてそう多くないんだからね。
クジラが好きだからってどうして海なのかな~なんてことを考えながら、八潮さんを待たずに私は歩き出したんだ。うん、海に来るのはすっごく久しぶりだったから、だから砂浜を歩くのも久しぶりで、ちょっと楽しくなってきちゃったんだよね。
アスファルトから砂浜に変わる境界線を、砂に靴が埋まらないようなところを選びながら歩いて、白く見える波を眺める。八潮さんが言ったとおり、少しだけお日さまが傾いてたけど景色はキレイだった。
シュロっていうのかな、南国っぽい木が植わってて、海はエメラルドグリーンって感じの色してて、夕日が沈む頃になったらきっと海はオレンジ色になってキレイなんだろうな──なんてことを考えてぼんやりした私は、やっぱりおバカなのかもしれない。