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第二話

 高校卒業後すぐの約四年前、私はとある企業に勤め出した。

 会社の社長は父の兄で、恥ずかしいことに私は縁故入社で入社したのだ。でなきゃなんの資格もない高卒女子が一流どころに肩を並べるこの商社に入れるわけがないのだからね。私だって身の程を知っているのです。私という人間が、友人たちから『理想のお嫁さん』と言われていても、お勉強ができなくて、要領もあんまり良くなくて、縁と運だけで人生を過ごしてきたんだってことをね。

 まあそんな経緯はいいとして、私はその会社で一歯車として働き出して、頑張ってお一人さま資金を貯めるぞ──って思ってたんだ。だけど、そこを辞めてしまった。辞めたくなかったけど、もう耐えられなかったんだよね。うん。私の我慢が足りなかったのかもだけど、人間耐えられることと耐えられないことがあるんだから仕方ないよね。

 と言っても、耐えられなかったのはイジメとかそういうことじゃない。私はイジメられて泣き寝入りするような殊勝な性格でもないし、そういうのは心が貧しい人がすることだと割り切って、無視するなんて簡単だからね。

 それに私が入社した商社ってのは、知る人ぞ知るって感じの結構古参な同族会社ってやつだった。だから役員とかはそれなりに親戚関係が多かったの。そのお陰か縁故入社だから贔屓されてるとか、それを知った人のあたりがキツくなるとかはなかったし、それが元でイジメられるとかもなかった。妙に取り入ろうとする人もいそうだったけど、実際はそんなこともなかったしね。私にとってはホントにいろいろ過ごしやすい会社だったのですよ。

 そりゃ仕事は仕事だから嫌なことも多少はあったよ。

 毎日の仕事だって単調なものだったけど、毎月決まった額のお給料が出るし、福利厚生は厚いし、私にとっては得しかなかったんだよね。だからホントなら辞めたくなかった。けど、辞めざるえなくなっちゃったんだよね。あの上司さまが現れちゃったから。


 あれはいつもの朝だった。いつもの仕事として、私は雑巾を絞ってた。早朝というほどでもないけど、まだ誰もいないオフィスの一画で。

 私が入社した会社は知る人ぞ知るという商社。飛行機や船といった大物から、チョコレートまで手広く扱う、誰もが一度はCMを見たことがある名のある総合商社ってやつだった。うん。正直な身分不相応な職場だという自覚はあるよ。

 私がしてたのは一般事務にあたることだったろうけど、特に資格とかいらないからホントに簡単なことしかできなかったし。

 そう、私は有能な人間じゃないから、できる仕事がそれはもう人の三倍は少なかった。なんと私が自信を持ってできるのは、コピーにお茶汲みに電話応対だけという体たらく。

 パソコンはメール、しかも社内限定が送れる程度で、エクセルとかで書類を作れるは作れるけど、仕上がりまでには人の三倍かかる。

 うん。はっきり言おう。

 私はたぶんOLさんというものに向いていないのだと。でもそれでも私はOLさんなわけなので、できる仕事だけでもしっかりやろうとしてたんだ。

 そんな風に誰でもできる仕事しかできないのなら、私にできない仕事をする人たちが過ごしやすい仕事場にしよう──なんて思ってね。基本的に真面目で、柔軟な思考を持ってるのですよ、私は。

 だから私が入社して一番に決めたことは四つ。

 朝一番に出社して、私のいる営業二課の掃除をすること。

 頼まれた仕事をしっかりとこなすこと。

 嫌な顔はしないで、常に笑顔でいること。

 けどどうしても嫌なことはキチンと、且つハッキリと断ること。

 社会人としてというよりも、人として当たり前のことと言えば当たり前なんだけど、私はそれをモットーにして仕事をしていたんだ。そのお陰か上司にも、同僚にもけっこう可愛がられてたとは思う。仕事ができる子ってよりも、マジメないい子って感じだったけどね。

 その日の朝も、私はいつも通りに掃除をしてた。

 オフィスがキレイで、かつその日仕事をするのに過不足ない備品が揃っている。それを念頭に置いて、学生時代にした週番の仕事みたいに花瓶の水を替えたり、デスクを拭いたり、軽く床を掃いて、備品の不足をチェックをしたり。ホントに軽いことばっかりだったけど、そういう細かいことを調べたりするのは嫌いじゃないから苦にならなかったんだ。

 きっとそれがことの始まりで、私が会社を辞める原因になったのかもしれない。そう思うと、今は少しばかり悔しい。だってそのせいで、私の長年思い描いて来た夢への道が陰ってしまったのだから……。

 今から八ヶ月前のある日のこと。その日も私は朝一番に出社してた。

 いつも通りに掃除をして、それから出社してくる人たち用にコーヒーを落として、お茶を入れられるようにお湯を沸かして──とルーチンワークにしていたことを、いつも通りにこなしてた。

 そうしたらかかった声。

「おはよう」

「おはようござい、ます……?」

 聞こえた挨拶に条件反射で返したけど、振り返って見たその人は私の記憶にはなかった。

 グレーのダブルスーツを着た、銀縁眼鏡の見知らぬ人。年はたぶん私とそんなに変わらない感じはしたけど、かなり落ち着いた大人の男風だったのは確か。まあ、それでも私の叔父さんたちの素晴らしい男ぶりには残念ながら遠く及ばないんだけどね。

 その人はどこか驚いたような顔をして、聞いてきたんだ。

「随分早いんだね」

「そう、ですか?」

 にこやかに見えて、どことなく胡散臭い笑顔を装備した見知らぬ人。お高そうなネイビーのコートを腕に掛けて、これまたお高いだろう革製の通勤カバンを手に持っていた。驚いた顔も、笑顔も、醸し出す雰囲気もどことなくイヤミな感じがして、私は警戒しながら答えてた。

 ていうか、私がいたその時間ていうのは、みんなが出社するより三十分くらい早いだけ。そんなに言うほど早くないと思うんだけど。なんて思いながら、この時の私は掃除の続きをしながら会話を続けちゃったんだよね。

 今でも後悔だよ。さっさと会話なんかぶった切って、そこから離れちゃえばよかった。なのに、この時の私はこの不審者を一人にしちゃいけないんだ──なんて妙な正義感に駆られちゃったのだ。

 うん。駆られたところで一介のOLになにができるというのか。なにもできやしないのに……。

「えと……その、」

 とりあえずまごつきながらも、この不審者が『誰か』を確認しよう。なんて思って、つい私から声をかけてしまった。それも後悔する項目だね……。

 ちゃんと言葉にできていなかったのに、察しのいいらしいその人はさっと笑顔で答えてくれたのだ。

「ああ、僕は今日からここで働く千葉真治。君は?」

「え、あ……望月です」

「そう、望月さんていうんだ。よろしくね」

 不審者改め千葉真治がにこやかにそう言って、私は思い出した。

 今日からここに新しい課長が来るってことを。

 先月末でこの課の課長だったオジサマが定年退職して、その後任として専務直々にヘッドハンティングしてきた若手が来るんだ──なんてことを社長が言っていたのだ。うん。そういえばそうだった──なんて安心して、ついつい笑顔で私は対応してしまったんだよね……。

 だって社長である伯父さんは、この人のことをそりゃもう有能で、デキル男なんだぞ、なんて言ってたから。うん、わかってる。責任転嫁だって。でも後悔しかできないんだもん。ちょっとくらい伯父さんのせいにしたいんだもん。

 そう、この胡散臭い笑顔が標準装備で、察しがいいらしいのに、ある意味では察しの悪いこの男こそ、私が会社を辞める原因である。

「望月さんはこんなに早くに来て、一人で掃除するなんて偉いね」

「え? 別に偉くなんてないです。私にできる仕事はそう多くないけど、他の方が気持ちよく仕事ができる環境作りくらいならできるので……っ!」

「ん? どうかした?」

「い、いえ! な、なんでもないです……」

 言いながら礼儀として視線を合わせた私はそれを後悔した。だって千葉真治の目が妙に光った気がしたんだもん。

 もちろん人間の目がロボットみたいに光らないってわかってるけど、この時の私にはそう見えたんだよね……。ホントになんでその時に会話を打ち切らなかったんだろう、私は。

「そう? それにしても随分綺麗にしてくれてるんだね。全部のデスクも拭いてあるみたいだし、キーボードには埃の一つもないし……もしかしてこのメモ帳も足してたりするの?」

「え、あ、はい。一応」

 千葉真治が手にしたのは、電話横に置いてある備品のメモ帳。コレは新しい紙を追加できる、ちょっとエコなヤツなのだ。少なくなってきてるなって思ったら、確かに追加してきてたけど、それに気づいた人はこれまでいない。ていうか、紙を足せるって知ってる人も少ないかもなくらい。それに気づいたこの人をスゴイなとは思った。

 けど、正直それは感嘆からのものじゃない。細かいことに気づきすぎて気持ち悪いって方で。

 うん、私の対異性評価がかなり偏ってる自覚はあります。でもこの時そう感じたことが正しかったのも事実だ。

「細かいところにまで気づくなんて素敵だと思うよ」

 そう言った千葉真治は、そりゃもう素晴らしく胡散臭い笑顔を見せた。うん、マジで目が光った気がしたよ。

 なんだろう。ヘビに睨まれたカエルってこんな気持ちなのかもしれない……。や、私が非捕食者だとは言わないけど、なんかこの人は狡猾な人なんだって感じたんだよね。うん。ていうか私が非捕食者になるのだけはホントに願い下げですよ。

 それから二言三言、弾みもしない会話をしてると、同僚たちが出社してきて、千葉真治は私以外の人に囲まれることになった。うん、この時に助かったって思った私に罪はないと思うね。

 そんなあんまりいいとは言えない出会い方を私がした千葉真治こと、上司さまはそれはもう有能でした。仕事については。

 ヘッドハンティングで会社に来たという前評判からわかる通り、上司さまは確かにすごい経歴の持ち主だった。

 政治家を何人も輩出したという某有名大卒で、海外留学で経済のことを学んできてて、外資系のどっかの企業にいたという同僚曰く『イケメンで有能な人』らしい。まあ、社長も有能だって言ってたから、それは確かなのだろうけどそれと人柄とは別だと思うんだよね。

 だってあからさまに自分イケメンですからとか、できる男ですからオーラをまとってるなんて、正直好感が微塵も持てないタイプでしょ?

 私は恋愛に興味はないけど、人として好きになるならないって感情はあるんだ。例え少数派の意見だったとしても、そう思ってしまった私に罪はないと思う。実際その印象は間違いじゃなかったわけだしね。

 ちなみにそんな上司さまは、あの日着てたスーツもコートもブランドものなら、ピッカピカに磨かれた先の尖った革靴もブランドものだったそうです。似合ってたかどうかはわからないけど、それも自慢のようだった。しっかり見てないし、興味なかったからどうでもいいけど。

 そんな経歴と、初対面の時から薄々感じていた通りに、やっぱり上司さまはご自分に自信満々なお方だった。まあ身体中からそんな雰囲気溢れまくってたしね。間違えようがないよね。

 もちろん自分に自信があるのはいいことだとは思うよ?

 人様の迷惑にならないなら、いくらでも自信満々になればいい。それで成果が上がるんだったらやる価値はあると思うし。まあ私は自信満々になるような特技はないからしないけどね。

 けどその上司さまは周りの──っていうか私の迷惑顧みずに行動をお起こしになったのですよ。セクハラって言っていいのかどうか微妙なラインのね。

 私はこれまでの四年弱、ごくごく真面目に勤務してきてた。

 老後までお一人さまで過ごすなら、収入を自分で得るのは当たり前のことだからね。縁故入社だけどキチンとした企業に就職できたし、頂くお給料に見合う分はしっかり仕事をできてたとは思う。自己評価だけど。

 けど、そこに現れた、はた迷惑な上司さまのはた迷惑な行動。

 ホントに仕事については、社長がいう通りにそれまで課にいた誰よりも──ていうか前課長よりもできる人だったと思う。仕事の割り振りだとか、新しい手法を上手いことみんなに浸透させるところだとか、新しい取引先をいくつもゲットしてくるところだとか。そういう仕事についてだけだったら、たぶん尊敬できないこともない人だと思う。

 でもホントにそれは仕事についてだけなのだ。

 上司さまは、人としては相手の機微を読んだりはしてくれてない気がすっごいした。ていうか、読んでても無視してるっていうか……。うん、私の心は無視されてたので、それが正解かもしれないね。

 そうなのです。上司さまは、私の心の機微をあえて読まずに、それはもう何度も誘ってきてくれちゃったのですよ。

 四年弱勤めて、慣れたことでそれなりに楽しく過ごしてた職場で毎日毎日、その上司さまがこうのたまうわけなのです。

『今度(*)食事に行こう?』だの『(*)映画でも観に行かないか?』だの『(*)呑みに行かないか?』だのと。しかもT・P・Oも弁えずに人前で。

 例え断りにくい人前でだろうと、全部(*)部分に『二人で』がつくのがわかってるんだ。どうしてそんな誘いに乗れようか。

 確かにタダのご飯も、タダの映画鑑賞もタダ呑みも美味しいとは思う。高卒OLの少なめな月給、しかも大半は貯蓄に回してる状態じゃ、豪勢な外食なんて滅多にできないからね。実際月に二回の合コン参加もタダご飯が目当てなんだし、他の人からの下心のない誘いだったらたぶん乗ってたと思う。けどね、結局誘いに乗る決め手になるのって一緒に行って楽しい人かどうかだよね?

 正直あのはた迷惑な上司さまが相手じゃ、楽しいものも楽しめなくなる自信が私にはあった。

 まあ、そんな風に誘われるのは断ればいいことだし、面倒でも毎日断りましたよ。人前だろうとなんだろうとスッパリキッパリね。けどね、同僚たちがだんだんそれを許してくれなくなってきたんだ。

 上司さまと私は年も近いんだし、いっそ付き合っちゃえばとか言ってきたりして、私じゃなくて上司さまの味方をしてくれちゃうのですよ。

 悲しいことに私と同僚たちとの付き合いは、上司さまが現れたことであっさりイケメンらしい上司さまに軍配が上がってしまったのです。

 それからは針の筵だったなあ……。

 毎日毎日誘われて、毎日毎日同僚たちにせっつかれて、胃を壊すかと思ったねえ。三食しっかり揚げ物食べても全く壊れなかったけど。ていうかむしろストレスで食事量増えて太ったけど。

 とにかく上司さまはホントにいろいろ私の迷惑なんて一切顧みず誘ってきたのです。そういうとホントに最低な人に感じるんだけど、外面だけはホントにいい人だったみたいで、着々と周りを味方につけていってもくれちゃったのですよ。

 あんな風に仲間内から一斉に同じことを言われたことなんて、社内でもそうだけど、学生時代でもなかった。『残念な子』だってこと以外にはね。おんなじこと言われ続ける耐性はあったつもりだけど、今回のは軽くトラウマになるよ、ホントにもう。

 同僚曰く、私と上司さまはお似合いだとか、あんなに熱烈にアプローチされるなんて女冥利に尽きるだとか、これを逃したら後がないんじゃないだとか──とにかくいろんなことにを言ってくれたのですよ……。みんなありがた迷惑って言葉知ってるのかなあ……。

 そんな風に神経をすり減らされるようなことを言われ続けること三ヶ月。

 上司さまが現れて、同僚たちにせっつかれても三ヶ月もの間我慢した私は偉かったと思う。私自身も、これはなんとかやっていけるかな、なんてことを感じ始めてたくらいなんだ。

 けどそれはやっぱり勘違いだったらしい。

 毎日のらりくらりと躱し続けたんだけど、どうにも我慢できない一言を私的には仲良くしてたと思ってた同僚に言われたのだ。

 それは『二人はお似合いだし、結婚しちゃえばいいのに。ていうか今結婚しないときっと後悔すると思う』と言うものだ。

 私と上司さまの何を以ってお似合いなのか。甚だ疑問だけれど、それを言った子は冗談のつもりだったのだろうと思いたい。まあ、目がかなり本気な気もしたけれど、私はあの子じゃないから真相はわからないしね。

 でも私はその言葉自体も、それを言ってくる方々がいる職場にも、迷惑極まりない上司さまにも嫌気がさして、その場で社長室まで行って口頭で辞意を表明しました。その時の私の行動はそりゃもう素早かったと思う。

 笑顔で、それを言った子に「ちょっと失礼」なんて言って、颯爽と社長室に行ったのだ。そんなこと社会人としてはダメだってわかってたけど、でもした。だってホントに耐えられなかったんだもん。

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