第3話
「心を滑らせよう」
言葉が終わるが早いか体が宙に浮き、ものすごい速さで景色が後ろに流れ始めた。
東シナ海を越えてアジア大陸へ。
中国、ミャンマー、バングラデシュの上空を横切り、目的地のインドに着いた。
あらゆるものから自由になった体はインド中を縦横無尽に飛び回る。
ムガル帝国の歴史香るジャーマー・マスジッド、
皇帝シャー・ジャハーンの威光タージマハル、
ヒンドゥーの聖地バラナシ……
めくるめく景勝たちが脳裏に焼き付けられる。
終わった。
インド旅行を終えた田島ハルは、受付ロビーのベンチに腰掛けて放心していた。
物理的にあり得ない短時間で日本を飛び出し、インド一周旅行をしてきたのだ。
楽しいが、ちょっと疲れる。
ハルはベンチからゆっくりと立ち上がり、自動販売機で無糖の炭酸水を買うと、
一口飲んでから外に出た。
もう夜だ。
「また来年、ここに来られるようにがんばらなくちゃ」
出てきた「エニウェア・トラベル」の建物を振り返って、ハルはつぶやいた。
格安の疑似旅行体験サービスは、彼女が社会人5年目となってからのささやかな趣味だった。
小さな建物の中にはヘッドマウントコンピュータが数台あって、
それを頭に着けることで、体は日本にありながら心は世界中どこにでも行ける。
資源の枯渇や各地の紛争における安全の確保など、
リアルの旅行は価格が際限なく高騰し、
普通の人間には一生かけてもできない贅沢になってしまった。
そこで普及したのがこの疑似旅行体験サービスだ。
環境負荷が少なく、安全で、低価格。
しかも時短だ。
体験した感覚からすると信じられないが、疑似旅行にかかる時間は1分程度だ。
先ほどのインドの光景も、実際には網膜を通過してすらいないらしい。
コンピュータから脳に、直接焼き付けられているのだ。
ただ疑似インド旅行をしたことになっている。
映画、ビデオゲーム、音楽のライブ、学校の授業などもこの方法が主流だった。
早い、安い、うまいではないが、すごいことを考えたものだ。
経過はなく、結果だけがある世界。
この人生すらも、瞬時に焼き付けられた記憶にすぎないのかもしれない。
自分はコンピュータの中で夢見る赤ん坊か年寄りなのかもしれない。
そんな空想をしながらハルは、コンビニエンスストアで夕飯の弁当を買うと、
家路についた。