そんな日常
少年は悪夢としか言いようのない一ヵ月をどうにか耐え抜き、それからは痛みが日を追うごとに軽減していった。
痛みがなくなった少年は、軽い運動のため散歩することが日課になっていた。その中で自然に住民と挨拶を交わすようになり、気が付くと数か月が経過していた。
その日も少年はいつものように散歩をしていた。すると、後ろから威勢の良い声が響いた。
「オーブちゃん。オーブちゃん!」
だが少年は聞こえていないかのように黙々と歩き続ける。
「オーブちゃん!また、自分の名前を忘れたのかい?」
かけ声と共に肩を叩かれる。そこで少年はようやく自分が呼ばれていることに気が付いて振り返った。
「ん?あぁ、イザベラおばちゃん。どうしたの?子どもは元気?」
少年の前には五十歳ぐらいの恰幅良い女性が仁王立ちで立っている。
少年は自分の名前を呼ばれているにも関わらず、まるで他人の名前のように反応が鈍かった。
それも一度や二度のことではない。そのためか、ここの村人はこんな少年の反応に逆に慣れてしまい、少年が何故自分の名前に反応しないのか、疑問に思う人はいなくなってしまった。
イザベラおばちゃんと呼ばれた恰幅のいい女性が、野菜の入ったカゴを少年に渡す。
「これ、持っていきなよ。新鮮だよ」
形は不揃いだが土がついた採れたての野菜を見て、少年は嬉しそうに笑った。
「え?いいの?うわぁー、ありがと」
少年が生き生きとした年相応の笑顔で答える。それは数ヶ月前までの少年からは考えられない表情であった。
無表情、不機嫌、もしくは人を小馬鹿にした笑み。それが今までの少年の表情であった。
もし、ここに今までの少年を知る人間がいれば、頭に金ダライが落ちてきたような衝撃を受けているだろう。残念なことに、それに該当する人間はここにはいないが。
少年は笑顔で野菜を受け取りながら一つ注文をつけた。
「でも、ちゃん付けはやめてよ。女の子みたいだし」
少年の抗議を聞いてイザベラが豪快に笑う。
「うちの娘より可愛い顔して、なに言ってんだい?いっそ、うちの娘になったらどうだい?」
その言葉に少年は思わずイザベラの三段腹に視線を向けた。
「えー?オレそんなに太りたくないなぁ」
「なんだって!?」
「冗談だよー」
半分笑いながら怒るイザベラからオーブが慌てて教会の方へ走って逃げる。
そこに神父がすまなそうに歩いてきた。
「すみません。オーブが失礼なことを言って」
イザベラが豪快に笑いながら手を振る。
「いいんだよ。数年前、初めてここに来たときのオーブちゃんと比べたら、良いじゃないか。あの頃は死んだような顔して一つも笑わないし、しゃべらなかったからね。しかも、すぐにどっかに連れて行かれちまったし」
「そうですね」
そう答えた神父の視線の先には、教会の前で他の村人と笑顔で軽く挨拶を交わす少年の姿があった。
「オーブちゃんはこのまま、ずっとここにいるのかい?」
「どうでしょうかねぇ?そこの判断は本人に任せていますから」
他人事のように話す神父をイザベラがせっつく。
「なに言ってるんだい!せっかく帰ってきたんだから、このまま教会の跡継ぎにしなよ」
「本人次第ですよ。この仕事は無理やり押し付けるものでもありませんから」
穏やかに言いつつも決して揺るがない神父の意思にイザベラが肩をすくめる。
「確かに。本人が神様に仕える気持ちがないと意味がないからね」
そう言って二人が少年の方を見る。
すると少年はいつの間にか携帯電話を手にしており、電話相手に怒鳴っていた。
「ふざけるな!」
教会の外ではいつも笑顔の少年が珍しく怒っている。と、いうか少年が怒っているところを見たことがない。
理不尽なことがあっても悲しい顔をするだけで怒るということはなかったのだ。しかも、悲しい顔といっても大抵はふざけ半分のようなことが多い。
そんな少年が怒るという珍現象を目の前にした神父とイザベラは、黙って視線を合わすと、無言で頷き合って事の成り行きを見守ることにした。
それは先ほどまで少年と挨拶をしていた村人も同じなのだろう。少年を囲んだまま無言で様子を見守っている。
一方の少年は、そんな探るように見守っている周囲の村人の視線を無視して、電話の相手に怒りをぶつけている。
「すぐ、なんて無理だ!オレが今どこにいるか分かって、いや、その前になんでオレの携帯番号、知ってんだ!?オレはおまえに教えてない……」
怒鳴り続けていた少年が突然、黙った。
そして、ムーンライトブルーの瞳を大きくしたかと思うと、神妙な顔をして静かに二言、三言、話すと携帯電話を切った。
そして何が起きているのか、まったく分からない村人を放置して、少年は教会の中に飛び込んだ。
数分後、少年は教会から荷物を担いで出てくると、口元に手を当てて神父に向かって叫んだ。
「ジェラルド神父!ちょっと出かけてくる!麦の収穫までには戻ってくるから」
それだけ言うと少年は駅の方へと走って行った。
突拍子の無い少年の行動に、誰も「いってらっしゃい」さえ言えず、呆然と走り去る背中を見送った。