月の家
そこは青々と茂る麦畑と古い家々が集まっている田舎の小さな集落だった。
街灯もなく家畜も寝静まった夜更けに教会のドアが力なく叩かれる。その、あまりにも小さくか弱い音は昼間なら日常生活の音でかき消されてしまうほどだ。
だが、今は夜の静寂に守られて、その音は目的の人物に届いた。
建てられて百年以上は経っているであろう古い教会のドアがゆっくりと開く。
「こんな夜更けに、どうされました?」
薄明かりとともに七十代後半ぐらいの神父が出てきた。
短く切りそろえられた白髪と顔に刻まれた深いシワは、一見すると頑固そうで強面の印象を持つ。だが、瞳は透き通った水色で穏やかな優しさに包まれている。
その姿を見た少年はホッとしたように声を出した。
「久しぶり……」
そう言って力なく倒れる少年の体を神父が慌てて支える。
「オーブ?どうしたのですか?」
神父の名はジェラルド。引退した現在でもヴァチカン中枢に強い影響力を持ち、少年の本名を知っている数少ない人間の一人でもある。そして、少年を本名で呼ぶことの出来る、これまた数少ない人間の一人でもあった。
少年は体を支えられたまま右手に持っていた小箱を神父に差し出した。
「これ、ヴァチカンに送ってくれ。あと、休ませて……痛っ!」
少年が苦しそうに頭を押さえて、しゃがみ込む。
「大丈夫ですか?」
「寝たら……治る……から」
神父は軽く外の様子を確認すると素早くドアを閉めた。そして玄関に座り込んでいる少年に肩を貸してベッドまで連れて行った。
「医者を呼びましょうか?」
心配する神父の言葉を少年が即座に拒否する。
「いや、医者はいらない。呼ぶな。それより、これをヴァチカンに送ってくれ」
「……わかりました」
神父がベッドに横になった少年から小箱を受け取る。
少年はガンガンに痛む頭を押さえながら、なんとか笑顔を作って神父を見た。
「悪いな、突然。迷惑をかける」
少年の言葉に神父がいつもの微笑みを浮かべた。少年が初めてここに来たときと同じ微笑を。
「ここは、あなたの家ですよ。遠慮することはありません」
「ありがとう」
そのまま少年は安心したように眠りについた。
次の日から少年は頭を割るような頭痛と、溢れる力によって発生する激痛に襲われた。
思い出した記憶による怒りで暴走しそうになる力を無理やり体の中に抑える。すると、逃げ場のない力は痛みへと変わり、全身を走り抜け、体が引き裂けそうになった。
許容量を超える記憶と知識は、脳が対応しきれずに頭痛となり、眠ることさえ許さない。
ベッドに寝ているだけなのに疲労困憊となり、食事はおろか水分さえまともに取れない日々が続いた。
何度も医師の診察を勧めてくる神父に「大丈夫だから」と、説得力のない言葉を言いながら、少年がこの苦痛から解放されたのは一か月後のことだった。