記憶
四人が別荘の端にある見張り台の階段を駆け上がっていた頃、黒狼と蘭雪は見張り台の屋上にいた。
そこは直径が十メートルぐらいはある円形の形をした場所だった。端には柵などはなく、足元に二、三段ほどレンガが積まれている程度だ。
「これから、どうするのですか?」
雲一つない青空が広がり、遥か眼下は海が広がり波が崖に打ちつけている。どう見ても、逃げ道はない。
だが黒狼は余裕の表情で質問をした蘭雪を見た。
「黙ってついてくればいい。あの姿を見られたのだろう?あいつらのところには行けまい」
黒狼の言葉に蘭雪の体が小さくなる。
轟音とともにヘリコプターが近づいてくる。蘭雪が上空を見上げると、ヘリコプターからハシゴが降りてきた。
「掴まれ」
黒狼に促されるが蘭雪はハシゴを見つめるだけで動かない。そこに四人が見張り台の屋上に到着した。
「待て!」
叫ぶ少年を見て黒狼が蘭雪を担ぎ上げようと手を伸ばす。だが、蘭雪は黒狼の手から逃げて見張り台の縁に立った。
「蘭雪!?」
驚く黒狼と少年の間になる位置で蘭雪が止まる。その様子に黒狼が怒鳴った。
「いまさら逃げられると思っているのか!?お前はワシの後継だ!絶対に逃がさないからな!」
その言葉に少年が笑う。
「あんたが欲しいのは蘭雪本人?それとも後継?」
「何を言っているんだ?同じことだろ」
「オレは蘭雪本人がいればいい。どんな姿でも、蘭雪が一緒に世界を見てくれるなら、オレはそれだけで生きていける」
その言葉に蘭雪は袖からサバイバルナイフを取り出した。
「ありがとう。それだけで十分」
蘭雪は自分の胸にサバイバルナイフを突きつけて止めた。
「やめろ!」
少年が叫びながら走るが、それより早く蘭雪は自分の胸にサバイバルナイフを突き刺した。そのまま胸から血が噴き出し、蘭雪の体が見張り台から海へと落ちていく。
蘭雪は全身を打ちつける海面からの衝撃を受け止めるために瞳を閉じた。
そこに少年の声が近くで響いた。
「蘭雪!」
近くで呼ばれた自分の名前に驚いて瞳を開けると、目の前に少年がいた。
蘭雪を追いかけて見張り台から飛び降りた少年は、空中で蘭雪を捕まえると嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、選んでくれて」
そう言った少年の瞳が黄河で見た夕日のようなサンセット色に変わり、背中に大きな白い羽根が広がる。
「あなたなら追いかけて来ると思っただけ」
「それで十分」
そう言うと少年は蘭雪を強く抱きしめた。二人はそのまま海面に叩きつけられて波にのまれた。
蘭雪は真っ青な海の中で奇妙な浮遊感に包まれていた。海面に叩きつけられた痛みもなく、海の中なのに呼吸が苦しくなかった。
『お帰りなさい』
懐かしいように感じるのに、初めて聞く声。蘭雪が瞳を開けて周囲を見るが、太陽の光に揺らめく青い世界しかない。
「誰?」
蘭雪の質問にあらゆる方向から声が響いてくる。
『私は世界でもあり、一部でもある』
「世界?」
『そう。そして、あなたの一部でもある』
「私の……?」
蘭雪がゆっくりと瞳を閉じて感じる。この世界と自分を。
『お帰りなさい、ガブリエル』
蘭雪の口が導かれるように、ゆっくりと確実に動く。
「ガブリ……エル……」
その言葉を呟くと同時に全身が痺れた。頭の中を走馬灯のように情報が駆け巡る。情報量が多すぎて処理が間に合わない。両手で頭を押さえる。
「頭が割れる!」
蘭雪が苦しむ中、頬に何かが触れた。するとスッと頭がクリアになり頭痛が嘘のように消えた。
蘭雪が瞳を開けると、サンセット色をした瞳がこちらを見ていた。さきほど少年が見せた瞳と同じ色だ。場所もいつの間にか海の中ではなく木々が見える地上にいた。
少年と同じサンセット色の瞳をした青年が、がっしりとした腕で横たわる蘭雪の体を支えていた。
顔の輪郭はぼやけていて、はっきりとは見えないが、カメリア色の髪がよく映えている。ただ、とても悲しそうな表情をしており、大きな瞳からは今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。
そんな青年が安心させるような口調で言った。
「傷は浅い。すぐに治療すれば治る」
青年の言葉に蘭雪の口が意思とは関係なしに勝手に動いた。
「私は医師よ。自分の体のことぐらい分かるわ。それより、頼みがあるの」
青年が震えそうになる声を堪えて訊ねる。
「なんだ?」
蘭雪の体は大きく息を吸うと、残された力で微笑んだ。
「あなたの手で死なせて。あんな奴に私を殺させないで」
「何言ってるんだ!生きるんだろ!?生きて、新しい世界を……」
サンセット色の瞳から涙がこぼれる。
青年の涙声を聞きながら蘭雪は微笑んで言った。
「お願い……私はこれ以上、生きられないから、自分の最期は自分で決めたい。最期は、あなたの腕の中で……」
その願いを聞いて青年が静かに決心をした。
「痛くないから」
青年の右手の中に金色の矢が現れる。
「ありがとう」
その言葉とともに蘭雪の世界が闇に包まれた。




