掴めない記憶
少年の挑発的な態度に今まで余裕の表情だった老人の顔が怒りへと変わる。
「返せ!」
老人の両手が少年に向かって伸びる。
少年は突き刺さってくる指を全て寸前のところでかわした。
「おのれ!」
怒り声とともに老人の体が暴発したように膨らむと、全身のあらゆるところが細く伸びて少年を襲ってきた。
「激しいな」
少年は軽く床を蹴ると、そのまま壁から天井へと重力を無視して部屋中を走り回って攻撃を避けた。
自分の攻撃が当たらないことに老人が苛立ったように叫ぶ。
「止まれ!」
「止まれと言われて誰が止まるかよ」
少年のバカにしたような言い方に老人が怒鳴る。
「黙れ!クソガキが!」
少年を追って老人の攻撃のスピードも速くなる中、少年は心の底から沸きあがる高揚感に浸っていた。
現代科学が作り出した武器も効かない、常人では決して対応できない敵。諜報員の仕事では味わうことの出来ない危機的状況。
常に自分の中にあるイライラした、満たされることのない感情。それを忘れることが出来る一瞬。いつも押さえている力を解放できる快感。
危険であれば、あるほど。
命の危機を感じれば、感じるほど。
凍りついた体が熱くなる。
そして、記憶が近づいてくる。
いつのことか、どこなのか、まったく分からない。
霞のように掴むことも出来なければ、見ることも出来ない。ただ、その時の強い感情が自分を襲うようにやってくる。
とても大切な仲間がいて、とても大切な人がいた。
大切な約束をしたのに……
一緒に生きようと約束したのに……
オレはその人を……
守れなかった……
殺してしまった……
この手で……オレはその人を殺した……
守りたかった、一緒に戦っていきたかった、その人をオレはこの手で……
ここまで記憶が押し寄せてきたところで、霞がかっていた少年の頭の中に風が吹き抜けた。
突然クリアになった意識に、全身を血で染めた姉の姿が浮かんだ。
思い出したくなくて封じていた記憶。泣くことしかできず、無力だった頃の自分。
その記憶をかき消すように少年は無意識に叫んでいた。
「わあぁぁぁぁ――――――――!」
少年は銀のナイフを取り出すと、全てを消すように老人に飛びかかって首をはねた。
「はあ……はあ……」
少年は荒く息をしている自分の声で我に返った。
ここまで深く記憶に近づき、自分を失いそうになったのは初めてだった。
「……オレは……一体……何者なんだ?」
少年が頬を流れる汗をぬぐっていると、子どもの声が響いた。
「なにをしている?」
突然の声に少年が素早く銃を構える。だが、その先にいる人物の姿を見て少年は絶句した。
銃口の先にいたのは五、六歳ぐらいの男の子だった。
ナイフのように鋭い銀髪をした男の子が、年齢に似合わない強さをした翡翠の瞳でまっすぐ少年を見つめている。その背中には半透明の白い翼が見えた。
「羽根?」
少年が思わず呟いて目を細めるが、子どもの背中には何もなかった。