事故
蘭雪はその場にいない少年を探すために名前を呼ぼうとしたが声が出なかった。
「……!」
今更になって蘭雪は少年の名を知らなかったことに唖然とした。
蘭雪は両手を握りしめて車に駆け寄った。大破した車の運転席に人影はなく、地面には商品やガラスの破片が散らばっている。
「もしかしたら、店内に飛ばれたのかも」
蘭雪が車と壁の隙間から店内に入ろうとした時、聞き覚えのある声がした。
「危ないから、店の中に入ったらダメだぞ」
蘭雪が慌てて声のした方を見ると、車のトランクに腰掛けた少年がいた。
いつの間にそこに座ったのか気がつかなかったが、少年の全身は砂埃と血で汚れていた。だが顔は笑顔のままだ。
少年の姿を確認して安堵している蘭雪に、少年が小走りで近づく。
「どうした?」
少年が膝を屈めて視線を合わす。大きなムーンライトブルーの瞳に見つめられ、蘭雪は無言のまま少年の服の裾を掴んで俯いてしまった。
動くことも出来ず、ただ助けられた上に怪我までさせてしまった。今まで感じたことのない感情に蘭雪は言葉が出ない。
俯いたまま黙っている蘭雪に少年が慌てる。
「どこか痛いの?もしかして、ケガした?ごめん、いきなり投げたもんな。重かった、なんて思ってないから」
「そんなことじゃなくて」
そう言いながら蘭雪が顔をあげると頬に水が流れた。
「雨?」
蘭雪が思わず空を見上げる。だが空は雲一つない晴天だ。どこから水が落ちてきたのか探していると、少年が蘭雪を抱きしめた。
「ごめん、泣くほど怖かったんだ。本当にごめん」
少年の言葉で、蘭雪は水だと思っていたものが自分の涙だと知った。驚いて自分の頬に触れる蘭雪に少年が微笑む。
「でも怪我がないみたいで良かった」
そう言った少年の額から血が流れる。その姿に蘭雪が慌ててハンカチを取り出して少年の額に当てる。
「それより、早く病院に行って手当てしないと」
蘭雪が少年から離れると、先ほどの車に轢かれた人々の呻き声や、助けを求める叫び声が聞こえてきた。
だが、そんな雰囲気などおかまいなしに少年は満面の笑みを浮かべた。
「オレの心配してくれるの?ありがとう」
少年が再び蘭雪を抱きしめようとした時、一台の車が二人の前に止まった。
黒服を着たアジア系の二人組みの男が車から降りてきて、蘭雪に一礼する。
「柳 蘭雪様。黒狼様より、すぐ戻るように、とのご命令です。車にお乗り下さい」
その言葉に蘭雪はいつもの無表情となり鋭い言葉で言い切った。
「彼を病院に連れて行くほうが先です。彼は私の命の恩人です」
男達が驚いた表情で顔を見合すが、一番驚いていたのは蘭雪だった。
今まで一度も黒狼の命令に逆らったことなどなかったのに、考えるより先に言葉が出ていた。
顔には出していないが内心では困惑している蘭雪に男達が声をかける。
「……わかりました。もう一台、車を用意します。そちらの車で病院までお送りしましょう。ですから、蘭雪様は早く車にお乗り下さい」
男達が焦るように蘭雪に近づく。その様子に蘭雪は違和感を覚えた。
そもそも、この男達を見たことはあるが、今回の護衛の任務は外れてローマに来ていなかったはずだ。
訝しんで一歩下がる蘭雪の横で少年が胸を押さえて苦しそうに膝をつく。その様子に蘭雪も膝をついて少年の顔を覗きこんだ。
「どうしたの?怪我が痛む?」
蘭雪の心配をよそに少年は蘭雪の耳元に口を近づけて、しっかりした口調のまま小声で話した。
「オレがさっき言った、変なガキのこと覚えてる?スペイン広場に戻って、そいつを探して、このことを伝えて。あいつらはオレが抑えとく」
「なに言ってるの?怪我してるのに」
「これぐらい、なんともないって。あいつがここに来れば乗り切れる。出来るだけ早く連れて来てくれよ」
ヒソヒソと会話をする二人に男達が顔を見合わせて頷く。そして男達が蘭雪を捕まえようと手を伸ばしてきた。
男達の手が蘭雪に触れる前に少年が立ち上がる。
「行け!」
少年が男達の手を弾いて蘭雪の背中を押す。蘭雪はそのまま振り返らずに走りだした。
怒鳴り声や銃声が聞こえて少年のことが気になったが、言われた通りの子どもを探すために走った。




