出会い
次の日。
蘭雪は黒狼とともにローマ市内にある建物に来たのだが、会合が終わるまで自由にしてよいと言われ、突然の空白の時間を持て余していた。
市街図は覚えているので、どこに何があるかは分かるが、観光に興味はなく、特にしたいこともないため、蘭雪は適当に歩いていた。
しばらくは周囲を眺めながら歩いていたが、身に着いた習慣のためか、いつの間にか人を避けるように細い裏道へと入っていた。
大理石とレンガで造られた建物に両脇を挟まれているが不思議と圧迫感はない。視線を少し上にすると窓と柵があり、その隙間に植木鉢がある。そこから赤い花々が垂れ下がり茶色の壁に彩りを添えている。その先に見える空は雲一つなく、青い道のようだ。
そんな光景を眺めて蘭雪はため息を吐いた。
後継者を変えることとなった、あの事件以来、自由な時間などなく、一人で外を歩くなど考えられなかった蘭雪にとって、今の状況は何をしてよいのか分からず、むしろ苦痛の時間となっていた。
「……帰ろう」
蘭雪はそう呟くと覚えた地図を頭に浮かべて、宿泊しているホテルの位置を確認した。
適当に動かしていた足を止めて振り返る。
その瞬間、肩にかけていたカバンを強い力で引っ張られ、そのまま持っていかれた。
蘭雪がカバンを盗られた方向を見ると、原付きに乗った男が蘭雪のカバンを片手に走り去っていく姿があった。
蘭雪は反射的に懐の銃を取り出し、引き金に手をかける。だが蘭雪が引き金を引く前に原付きが派手な音をたてて倒れた。
原付の前輪にはナイフが突き刺さっているのだが、原付に乗っていた男はどうして倒れたのか気付いていない。慌てて起き上がろうとしたところで、すぐ横の脇道から出てきた淡い金髪の少年に背中を踏みつけられた。
「なにしやがる!」
男が少年の足の下で体を起こそうと暴れるが、思いのほか強い力で踏みつけられているらしく、もがくことしかできない。
少年はそのまま呆れ顔で道に落ちた蘭雪のカバンを拾いあげた。
「なにしやがるって、人のカバンを盗んで何言ってんの?と言うか、こちらとしては感謝してもらいたいぐらいなんだけどな。あのまま逃げていたら、確実に殺されていたぞ。なぁ?」
最後の言葉は、すぐそばまで来ていた蘭雪に向けられていた。
だが、蘭雪は少年を無視して、男のこめかみに銃を突きつけた。蘭雪の無表情と重く光る銃口に男の顔が引きつる。
蘭雪は感情なく淡々と訊ねた。
「目的は?誰に命令された?」
蘭雪のことを可愛い顔をした、ただの観光客だと思っていた男は、蘭雪の無表情で無機質な独特の雰囲気に固まっている。それでも本能では命の危険を感じて、なんとか言い訳を言おうと口を動かすのだが声が出ない。
少年が笑いながら男の代わりに答える。
「この辺じゃあ、スリや引ったくりは日常茶飯事なんだよ。特に観光客は狙われやすい」
蘭雪が銃口を男に向けたまま視線だけを少年に移して質問をした。
「あんたは何者?」
「オレ?オレは盗まれたカバンを取り返した、ただの通りすがり」
少年はそう言って笑顔で蘭雪にカバンを差し出す。
「そう」
二人のやり取りで自分から話題がそれたことに男が安堵していると頭に激痛が走って気絶した。
蘭雪は男の頭を殴った銃を少年に向けて質問をした。
「昨日の夜、何処にいた?」
「なんで?」
少年は銃を向けられているにもかかわらず余裕の表情で蘭雪を見ている。
「ライフル銃の弾の軌道を逸らしたのは、あんたでしょう?」
蘭雪は昨日、建物の上から微かに感じた気配と同じ気配を少年から感じた。どう見ても、あの神業のような芸当が出来るようには見えないが、外見で判断は出来ない。
「えー?なんのこと?」
少年がワザとらしい声とともに視線を逸らす。ウソ丸出しの言葉だが敵意や悪意は感じない。
蘭雪は少年を得体は知れないが現在は無害と判断して銃を懐に収めた。そしてカバンを少年から取るとホテルへ帰る道へと歩き出したところで、軽く腕を引っ張られた。
「折角ローマに来たんだから、こっちにおいでよ」
「は?」
蘭雪が抵抗するつもりで少年の顔を見る。だが、そこにあった嬉しそうに輝くムーンライトブルーの瞳に思わず動きが止まってしまった。
「オレ、ローマには何回か来たことがあるんだ。簡単になら案内できるから」
少年はそう言うと前を向いて歩き出した。目の前にある無防備な背中を見て、蘭雪が袖に隠しているナイフに手を伸ばす。
「ローマは初めて?どこか行きたいところある?」
少年が振り返らずに蘭雪に訊ねる。その楽しそうな声に蘭雪は袖に伸ばしていた手を下げた。
蘭雪が少年に引っ張られるように細い裏路地から出ると、見事な白亜の彫刻が目に飛び込んできた。
宮殿の一部を前に、今にも動き出しそうな人々や、躍動感あふれる馬の彫刻がある。街中の一角に当たり前のようあるにも関わらず、彫刻の前に立つと美術館にいるような感じだ。
「ここがトレヴィの泉だよ。後ろ向きにコインを投げると、またローマに来られるっていう伝説が有名だから、知っているだろうけど」
蘭雪は淡々と知識を口にする。
「一七六二年にジュゼッペ・バンニーニが完成させたんでしょ?」
少年が感心したように頷く。
「よく知ってるなぁ。ちなみに、泉の後ろにある宮殿の彫刻は〝ポーリ宮殿〟っていう建物の壁面なんだよ」
蘭雪は少年の言葉より周囲を警戒していた。
観光客のような人々が多く、いろんな人種がいる。笑顔で写真を撮ったり談笑したりしている姿を注意深く観察する。
この中で襲撃されたとき、自分の武器、地理から、どのように戦い、どのように逃走経路を確保するか瞬時に頭の中でシミュレーションをしていく。これは生き残るために必要なことであり、常に考えていなければならないことだ。
蘭雪が頭を高速回転させていると少年の声がした。
「なに眉間にしわ寄せてるの?」
周囲への警戒を疎かにしていたわけではないのに、いつのまにか目の前に少年の顔がある。
突然の予想外のことに蘭雪の思考が止まる。そこに少年が蘭雪にとってのとどめを刺した。
「可愛くないから止めなさい」
少年がチョンと蘭雪の眉間を小突く。
「なっ……」
思わず出た言葉とともに蘭雪の表情が固まる。
眉間は人体の急所の一つだが、跡継ぎ教育が始まってから急所を誰かに触られた記憶などない。どんな人であろうと、たとえ黒狼や夜狼でも、傷つけられる可能性がある以上、触られる前に避けていた。
今も油断していたわけではない。むしろ警戒していた。それなのに少年の動きには反応出来なかった。
茫然自失している蘭雪に少年が首を傾げる。
「どうした?」
蘭雪が素早く後ずさり少年との距離をあける。その行動に少年が慌てた。
「あ、もしかして可愛くないって言ったから?ごめん、ごめん。ハニーはどんな顔でも可愛いよ」
その言葉に無表情だった蘭雪の顔が少し引きつる。そして自分で確認するように、その言葉を呟いた。
「……ハニー?」
その言葉の意味を咀嚼した蘭雪は無意識に足を振り上げて叫んだ。
「誰がハニーだ!」
ゴリュっという鈍い音が響き、頭頂部に踵落としをくらった少年が地面にめり込む。
「さすがマイハニー……想像通りの反応とは……」
地面に顔をこすりつけた少年の呟きは蘭雪に聞こえることなく消えた。
あまりの音に周囲がざわめき、観光客の視線が集まる。蘭雪は慌てて少年を引きずるように、その場を離れた。




