第九話 シャルロ山へ
妃奈は途方に暮れる。
今から山に行くって言われたって……。
リンが入れてくれたお茶を飲んで、急速に眠くなり、自室のベッドで寝たところまでは覚えていた。でも、その時、こんな胸元の開いたひらひらの夜着は着ていなかったはずだし、しかも、何故アレクの部屋にいるのか。さっぱり分からない。アレクは、私が連れて来られたのだと言っていた。誰が? 何の為に?
無意識に指先が唇をまさぐる。
あぁ、やっぱりダメだ。意識しないようにって、さっきからゴチャゴチャ考えているのが水の泡だ。
アレクの唇、触れていたよね。気付けのお酒を飲ませたって……そういうことだよね。
そう考えたところで、かぁーっと頬が熱くなった。両手で頬を挟む。
気付けだったんだよ。気付け。意識しちゃダメだから~。この国では気付けに口移ししまくりなんだよ……たぶん。たぶん……いや、絶対そうなんだって。
自分の頭をぽかぽか殴る。ふと、振り返ると、怪訝そうな顔をしたアレクと目が合った。ひきつった笑いを返して、そそくさとクローゼットに駆け寄る。
お、落ち着け私。羽織るもの、羽織るものを探さないとっ!
妃奈は慌てて、クローゼットの前に佇み、その重厚な彫りを施された扉の前でゴクリと唾を呑んだ。
私が勝手に開けても良いものなんだろうか。皇帝のクローゼットを開けて物色するOLなんて、前代未聞だよね。鈴ちゃんに話したら目を輝かせることだろう。そしてきっとこう言う。
――どんな衣装が入っていたのか、絵に描いてみてくださいよ~。妃奈先輩は説明が下手だから、さっぱりイメージが湧きませんっ。
しっかり目に焼き付けておかないとねっ。
妃奈は握りこぶしを胸の位置で堅く結んだ。
ところで、ずっと聞きそびれているんだけど、こっちの世界のOLってどんな職業なんだろうか。今度、リンに訊いておかないとだよね。
ガコンと扉を開けると、中には特に服らしい服はなく、室内着の上に羽織るようなものや、マント、きれいにたたまれたバスローブが数枚入っている。正式な衣装は、恐らく毎日衣装係りの人が持ってくることになっているのだろう。
ふと、中央に鮮やかな紫色のマントが掛かっているのが目に留まった。その容赦ない美しさに、思わず手が伸びる。濃く、艶やかな、官能的ですらある紫。
これ、貝紫とか言うんじゃない?
貝紫は、英語名はロイヤルパープル。ティリアンパープルとも呼ばれる。パープルという言葉は、そもそも、このアッキガイ科のプルプラ貝という巻貝の鰓下腺(パープル腺)から得られた分泌液を化学反応させて染料に用いたことに由来している。一つの巻貝からとれる分泌液はごく僅かで、その為、貝紫はとても貴重で高価な染料なのだ。
この色。すっごくきれい。
しげしげとマントの裾を手にとって見ていると、背後から声を掛けられた。
「大したものは入っておらぬか。官に衣装を持ってきてもらうわけにもいかぬしな。そうだな、そのマントを羽織って行くがよい」
「いえっ、こんなすごいもの羽織れませんよ。これは皇帝だけが羽織れるものなんでしょ?」
とても高価な染料なので、それを纏うことを許されているのは身分の高い者だけ。だから『王者の紫』と呼ばれるのだと聞いたことがある。
アレクは、聞いているのかいないのか、掛かっていたマントを引っ張り出すと、妃奈に巻き付けた。そして苦笑する。
「引きずってしまうな」
背の高いアレク用のマントなのだ。いくら巻き付けても、小柄な妃奈では丈が長すぎる。
「だが、この紫も、そちの黒髪によく似合う」
うわっ。だ、抱きしめたような状態で、耳元でそーゆーことを囁くのは、反則ですってばっ。も~っ。
「よし、これは余が羽織り、そちをその中に入れていこう」
「や、ちょっと待ってください。そんな恐れ多いこと。駄目ですっ」
「何故駄目なのだ? この時期のレムスの夜は、結構冷えるのだぞ? ともにマントにくるまっている方が温かい」
いや、でも……でも、ですね。
「あ、私はこちらのバスローブをお借りしますよ。丈も私が着ればちょうどいいくらいだし」
「ならぬ。そのような姿を、誰かに見られたらどうするつもりなのだ」
え、だって、マントだって似たようなものじゃ。それに夜着の上に羽織る訳だし……。
ぶつぶつ呟く妃奈に頓着することなく、アレクはマントを小脇に抱えると、先ほど開けた窓をぐっと押し開け、全開にした。
バルコニーから眼下を見下ろすと、夜陰に灯火がいくつも揺らめいており、見張りの衛兵が佇んでいるのが見えた。
「妃奈、ここまで出てこい。静かにな」
アレクがヒソヒソ声で呼ぶ。
「ここからどうやって脱出するんですか? まさか、こんな所までネプトゥヌスを呼び出すつもりではないでしょうね」
妃奈もヒソヒソ声で話しかけながらバルコニーに出た。高さは日本家屋の三階よりも少し高いくらいだろうか。樹木の上を跳び回れるのだから、高さ的には問題ないだろうが、ネプトゥヌスが着地できるような足場はない。どうするつもりなんだろう。
アレクは左手を頭上高くに掲げると、鋭く口笛を吹いた。ネプトゥヌスを呼んだときとは違う旋律。口笛は、高く、鋭く、澄んだ音が夜の静寂に木霊した。しばらくすると、闇の中から何ものかの咆哮が聞こえた。まるで、アレクの口笛に応えるように。
それの存在に気づいたのは、それが頭上高い場所で、ぐるりと旋回した時だった。最初は闇自体が蠢いたのかと思った。それは、それほどまでに巨大で、金色の瞳と薄紫色の翼を有していた。
妃奈はそれを呆然と見つめる。
な……に? あれ。ドラゴン? 時折窓を掠めていた巨大な影の正体。これだったんだ!
それは、緩やかに滑空しながらバルコニーの前を横切った。眼下の衛兵たちが、にわかにざわめき始める。
「妃奈、いくぞっ」
「ええっ? うわぁ」
強い力で、バルコニーの狭い手すりの上に引っ張りあげられた。
きゃあああ、無理無理~。高いところダメだってばぁぁ。
声も上げられず固まる。そんな状態の妃奈の腰を抱えたまま、アレクは、夜の闇の中に身を投じた。
「きゃぁぁぁぁぁ」
落ちるっ!
落下したのはほんの一メートルほど。しかし、妃奈には奈落の底に落ちているかのように感じられた。落下する二人を受け止めたのは、先ほどの翼竜だ。大きさは、体躯がワンボックスカーくらい、翼の大きさは小型飛行機ほどはあるだろうか。二人をキャッチすると、竜は得意そうに咆哮した。
二人を乗せて翼竜が悠然と上昇したのと、バルコニーからリュシオンが身を乗り出して、手を伸ばしたのがほぼ同時だった。
「陛下っ」
竜は、一旦、城の上空でぐるりと旋回し、再び下降しながら、城の中庭を舐めるように通過した。バルコニーで悪態をついているらしいリュシオンに、アレクは、じゃあなと、指で軽く合図すると、竜は空高く飛翔した。
ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ。
これは妃奈の心の中の声だ。実際は、声も出せないまま固まっている。
嘘だ、嘘だ、嘘だ、こんな高い中空を竜に乗って飛んでるなんて嘘にキマッテル。
ぎゅっと目を閉じ、離してなるものかとアレクの体にしがみつき、カタカタと震える。
「妃奈、目を開けて見てみるが良い。城がもうあんなに遠い」
「嫌ですよ。無理ですっ。わわわわ、アレクっ、動かないでくださいよ。落ちますっ」
「大丈夫だ。余がちゃんと支えておる」
耳元で風を切る音がする。言った通り、アレクは自らが羽織ったマントで妃奈も一緒に包んでくれたので、寒くはなかったが、安全バーもなしに絶叫マシンに乗った気分なのだ。とても目など開けて景色を見るような余裕はない。
「しょうがないやつだな。では聴くがよい。今、眼下には川が流れておる。北にあるルビオン山脈を水源とし、我がレムス国を南北に縦断し、アドル海へと注ぎこむアルビオン川という名の大河だ。歴代の皇帝は、この川を制することに、心血を注いできた。王都の外環を蛇行するこの川の西側には、今、刈り取られるのを待つばかりの穀倉地帯が広がっておる。この時期に、川が氾濫すれば、民はこの年の食料を蓄えられなくなるところだった。民が飢えれば、諍いや、病気が蔓延する。国庫も疲弊していたことだろう。国が疲弊すれば、北や西の国々につけいる隙を与えてしまうことにもなりかねぬ。戦になれば民が死ぬ。国土は荒れる。被害は甚大だ。此度、史上稀に見る大雨をもたらした嵐から、この国を守れたのは、眼下に連なっておる堤のお陰だ。あれがなければ、水門はもたなかったことだろう。そして、それを造ることができたのは、妃奈、そちのお陰なのだ。民に代り、余から礼を言っておく」
意外な話をきかされて、妃奈はつぶっていた目を開けた。アレクにしがみついたまま、そっと眼下を見下ろす。しかし、すぐに目を閉じた。足元には、月明かりを弾いて滔々と流れる大きな川が見えた。
無理無理。こわ過ぎでしょお~。
遥か下方に、確かに大きな川は見えたが、暗いせいもあって、堤も水門も確認できない。そもそも、妃奈と堤防造りと、なんの関係があるというのか。それさえ分からない。
「なんだか、よく分からないんですが。私は堤なんか造っていませんよ?」
「堤を造ったのは余だ。もちろん、そちは堤を造っておらぬ。しかし、余があのような堤を造れたのは、そちの助力あってのことなのだ」
何のことか分からないので、目は閉じたままで、妃奈はしきりに首を傾げる。
「よい。そちは分からずともよいのだ。兎に角、礼を言っておきたかったからな」
とアレクは苦笑しながら言った。
何のことだか、さっぱり分からないんだけど、一つだけ、分かったことがあった。
「よくは分かりませんが、でも、アレクが、民のことを大事にしている皇帝なんだってことは、よーく分かりました」
相変わらず目を閉じたまま、そう言うと、アレクが小さく笑う気配がした。
「民あっての国だ。民を守れぬ皇帝など、居る意味がない。国土を守ることは、皇帝の地位に居るものなら誰でも、なさねばならぬ最低のことだ。だが、余はそれだけではつまらぬと思う」
そう言うと、アレクは竜の手綱を引くと、ぐんと右に方向を曲げた。
「余は帝位について十年になる。その間、民にとって、幸福とは何かをずっと考えてきた。衣食住が満たされればそれで幸せなのか。答えは否だ」
「じゃあ、他に何が、必要だとお思いですか?」
妃奈はアレクの胸に顔を埋めたまま問う。
「笑顔だ。食事をする時も、働いている時も、まぁ、寝ている時は無理だが、どんな時も希望を持てて、前向きな笑顔で暮らせる豊かな生活を、一人でも多くの国民に送ってもらいたいと考えている」
「……素敵ですね」
そう言うと、アレクは照れ臭そうに、こう呟いた。
「単に、余は、幸せそうにしている人々を見るのが好きなのだ」
城下の街で、色々な店の軒先を楽しそうに見ていたアレクを思い出す。
胸の中がじわりと温かくなった。
この国の人たちは、アレクが皇帝で幸せだよね。
しばらく、無言のまま飛んだ頃、再びアレクが話しかけてきた。
「妃奈、恐れずに下を見てみよ。まもなく、国で一番大きな湖が見える。案ずるな余がしっかりと支えておるゆえ大丈夫だ」
んな、慈悲深そうな声で言っても無駄ですよ。湖なんかどうだっていいんですから。それに、暗闇で湖なんか見たって、何にも見えないに決まってます。
心の中で文句を言いながら、ふるふるっと首を振る。
「余が大丈夫と言えば、大丈夫なのだ。少し余のことを信じてみぬか? そなたにこの湖を見せたくて、わざわざ遠回りをしたのだぞ?」
弱りきったような声で説得するアレクに、妃奈は薄目を開けて見上げる。穏やかな色を湛えたラピスラズリの瞳が、笑んだ。
私に見せたくて、わざわざ遠回りをした?
「……どうして、わざわざ?」
「そちは言っていたではないか。シーブ・イッサヒル・アメルの実が、なっているところを見てみたいと」
そうだった。シーブ・イッサヒル・アメルの実は、湖底に生えている木になるのだとアレクは言っていたじゃないの。
「私の為に?」
「そうだ。ほら、右前方を見てみよ。水底に、シーブ・イッサヒル・アメルの実が幽かに光っておるのが見える。下降するぞ」
竜は緩やかに降下しながら、湖の上を旋回した。
それはまるで宝石が沈んでいるようだった。
ルビー、トパーズ、アメジスト、エメラルド。
真っ暗やみの中にぼんやりと、月の光を浴びて冷光を放つ、たわわに実った果実。揺れる水面を透して、ゆらゆらと、幻のような淡い光の宝石箱。
「……きれい。すっごくきれい」
「シーブ・イッサヒル・アメルの実を見るのは、夜が最高だな。何度見ても美しい」
アレクの言葉に、妃奈は黙って頷いた。
「少し飛ぶのに慣れてきたか?」
「いえ、全然慣れません。離さないでくださいよ?」
「離さぬとも。だが、余はいつかそちを手放さねばならぬのだろう? そちは、この国の者ではないのだからな」
手放さなければならない……か。
妃奈は小さく苦笑する。
なんて甘美な言いようなんだろう。それじゃ、まるで今は私がアレクのもので、しかもアレクは、私を手放したくないと思っているように聞こえるじゃない。でも違うよね。アレクはこの国の皇帝だから……。そもそも、この国ものはすべてアレクのものなんだ。でも、私は……私だけが違う。
私はこの国の者ではない。それどころか、私はこの世界の人間ではない。この前、レムス史を読んでいた時、世界地図が載っていたので、よくよく見てみたのだけれど、レムス国は、見たことがあるようでないような微妙な細長い形をしていた。ここは、本当に地球なんだろうか。アレクは、そのことを分かっているんだろうか。アレクの使う魔法というのは、この世界以外でも有効なんだろうか。いや、待てよ。有効だから、私はここに居るわけか。
「私が帰る方法を、アレクは知ってるんですよね?」
たとえ、私が異世界から来たのだとしても、と言う言葉は、結局躊躇して言えなかった。
「シャルロ山には、そちがやってきた軌跡を見ることができる魔道具があるのだ」
え? そうなの?
「それを確認して位置が分かれば、そちを国に帰してやれよう。だが、それはシャルロ山詣が終わってからだ。それまでは、余の傍におるがよい」
「あの……ずっと気になっていたんですが、私は、どこから出てきたんでしょうか?」
「言うてなかったか? そちは余から出てきたのだ」
は? はい? アレクから私が出てきた?
驚いて見上げる妃奈に、アレクは柔らかくほほえんだ。
なんですか? その当然だろ? 的な反応は……。この世界では、皇帝からなんか出て来ても誰も驚かないの?
「陛下から、私は出てきたんですか?」
「出てきた途端、そちの履物で蹴られて痛い思いをしたぞ。あの靴も戦闘用なのか?」
私はパンプスを履いていた。ヒールが当たってしまったんだろうか。それは痛かったことだろう。ってか、皇帝から何か出てくることについては、なんら驚くことはないらしい。一人驚いていた自分が虚しくなってきた。それは、大変申し訳ありませんでしたと謝り、あの靴は時と場合によっては武器になります、と説明しておく。
「あと、半刻もすれば山頂に着く。山の夜は寒い。そちは薄着だから、しばらく暖炉の前で大人しくしておるがよいぞ?」
前方にはシャルロ山の中腹が、暗闇の中に、更なる闇として立ちはだかっていた。