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第七話 皇帝陛下の浴場

「妃奈様っ、大ニュースですよ」

 ある日の夕刻、リンが指し湯用のポットを抱えたまま、部屋に駆け込んできた。自室で入浴の準備をしていた妃奈は、何事かと振り返る。

 基本、風呂は自室で入ることになっているのだが、水道もガスも電気もない部屋での入浴は、バスタブに張るお湯を源泉から何度も汲んできてもらわなければならない。本来なら毎日入りたいところだが、それでは、あまりにも申し訳ないので、週に二日ほどで我慢して、お湯で体を拭くだけにしていた。

「妃奈様に皇帝専用の浴場を使うようにと、陛下から直々にお言葉を賜ったのです」

 妃奈の為に、湯を運んでいたリンたち家令を見かけた皇帝が、事情をきいて配慮してくれたらしい。

 双翠宮の一角には温泉の湧く場所があって、そこから妃奈の入浴用のお湯も汲んできてもらっている訳なのだけれど、王族専用の浴室と皇帝専用の浴室には、それぞれ水路を設けて、直接引き込んであるのだそうだ。家令用の一般の浴室もあると言うので、そっちを使いたいと言ったら、洗濯などもそこで行うので、お客様を通せるような場所ではないと頑なに拒まれた。

 だからって、皇帝専用の浴場というのはまた……極端から極端だよね。

 皇帝専用の浴場は、基本的には皇帝とその妃が使用することになっているらしい。

「妃奈様が異常に綺麗好きで、入浴を好まれることを陛下に説明したら、ならばと……」

 リンはすごく嬉しそうにそう言った。

 異常にって……毎日風呂に入りたいと思うのは、向こうでは当たり前の習慣だったからだ。つい気を許して、リンに、そんな愚痴を言ってしまったのを後悔する。

「それは……温泉は確かに魅惑的だけれども……」

 皇帝やそのお妃様が使う浴室なんて、恐れ多くて使えないでしょう。

「御妃様がたのことを気になさっているのならば、御心配には及びません。御三方とも、御使用中は、必ず人払いなさいますし、王族専用の浴場の方を使う場合も多うございます。浴場で御目にかかる心配はございませんよ?」

 アレクには、御妃様が三人もいるらしい。

 そんなこと、皇帝なんだからちっとも不思議ではない。不思議ではないんだけど、軽くショックを受けている自分に、愕然とする。

 身の程知らずもいいところだよね。OLと皇帝。いっそ清々しいくらいに、身分が違う。

 ……もう、帰りたいな。これ以上ここにいたら、私……勘違いした揚句、辛い状況に陥りそうだ。

 無意識に胸元の銀竜のネックレスを握りしめる。


「リン、陛下のお申し出は、とってもありがたいんだけど、私、浴場を使わせてもらうのはやめておきます。ここは本当に素敵なところだけど、でもだからこそ、逆に、向うに帰った時に、それを思い出して辛くなりそうだし、それに……」

 そろそろ帰りたいという言葉は、思いつめた様子のリンに遮られた。

「妃奈様には、この国を好きになっていただきたいのです。その為なら、私、如何様な便宜も計るつもりです。リュシオン様からも、そのように取り計らうようにと言われております。だから、どうか帰りたいなどとおっしゃらないでくださいませ」

「……どうして」

 私が帰りたいと口にすることに、リュシオンもリンも過剰に反応する。どうしてだろう。

「妃奈様には、この国にずっと居ていただいて、陛下にご助力いただけるならば、どれほど心強いことか……」

「……私がなんの力になると言うの? 居ると心強いってどういうこと?」

 妃奈の問いに、リンは口が過ぎたと言わんばかりに、慌てて口をつぐんだ。

 リンもリュシオンと同じだ。何かを隠してる。


 結局、リンに強力に薦められて、皇帝専用の浴場を使わせてもらうことにした。皇帝専用の浴場は別な場所からもお湯を引いていて、泉質が全然違うので、お肌のつやが格段に変わるとか、とても美しい浴場で天界にいるようなのだとか、それはそれは巧みに、リンは妃奈を誘惑した。

 せっかくのお許しだし、一回くらい使わせてもらってもいいかな。入浴用のお湯を部屋まで運んでもらうのも、気が引けていたしね。

 という訳で、一人浴場へ。

 白い大理石の回廊をぬけると、そこは熱帯雨林……否、皇帝専用の浴場だった。皇帝専用の浴場ときたら、笑っちゃうくらい広い露天風呂なのだった。

 時折、綺麗な声で鳥が枝の上でさえずり、瑠璃色の羽を持つ蝶が舞う。

 密林の中の池ですね、これは。

 ポカンと口を開けたまま、木々の隙間から覗く暮れ始めた空を見上げた。浴場のあちらこちらには、既に灯りがともされていて、蝋燭が燃える甘くて香ばしい匂いと、湯気の湿った匂いと、木々が発する清冽な匂いが混ざり合って、あまりの心地よさに思わず深呼吸したくなる。実際何度も深呼吸した。

 ここマイナスイオン充満してるよね~。絶対だよ。

 肺の奥まで綺麗になった気がする。

 白く濁った湯船に体を浸す。湯は幽かに硫黄の匂いがした。いつも持って来てもらっていたお湯は無色透明だったから、リンが言っていた通り、本当に泉質が違うらしい。

 浴場の場所は双翠宮の最奥にあるらしく、湯船の向こう側には絶景が広がっていた。浴場全体を、背の高い木々で覆っているのは、近くを飛翔する乗騎から見えないようにとの配慮なのかもしれない。ちらっと見た限りでは、近くを飛翔する乗騎はいないようなので、そろそろと湯船の中を歩いて端っこまで行ってみる。しかし、湯船の縁から下を見下ろして縮みあがった。断崖絶壁だ。

 ここもか~。

「高所恐怖症には、いろいろ辛い城よね」

 一人ごちる。

 日暮れ間近の空は、茜色に染まっており、雲間から金色の光がこぼれ落ちていた。

 ……きれい。アレクの髪の色と同じ。

 深い海の色の瞳とか、しがみついた時の胸板の厚さとか、ネックレスを付けてくれた時の体温の高さとか匂いとか、思い出すだけでドキドキする。

 はっ、ダメダメ。マジで動悸がしてきちゃった。もっと鎮静効果のあることを考えよう。

 雨のしずくを払う犬のように、ふるふると頭を振る。

 えっと~、私は、ここに来る直前、何をしてたっけな。確か……。

 温かいお湯に肩まで浸かり、目を閉じた。記憶からこぼれ落ちているらしい、向こうの世界での出来事を思い出してみる。

 確か、私は残業で一人オフィスに残っていたはずだ。いつもならば、残業をしている人なんて複数いるはずなのに、その日、誰も残っていなかったのは、課の送別会があったからだった。

 ――佐伯君、こんな日に悪いね。これ急ぎなんだが……。

 終業間近に、課長に呼ばれた。

 簡単な入力の仕事だったが、一、ニ時間はかかりそうな量の書類だ。鈴ちゃんがプンプン怒って、手伝うと言ってくれたんだけど、その日、送別会の幹事を引き受けていた彼女が抜けるのは、甚だ不都合だったのだ。

「大丈夫だから。終わったら、顔を出すね」

「妃奈先輩、絶対ですよ? ちゃんと来てくださいよ? も~、久々に妃奈先輩を公然と引っ張り出して飲めると思っていたのに~」

 鈴ちゃんも妃奈同様、滅法お酒に強い。他の男性社員が引くくらい強い。だから鈴ちゃんと飲むお酒はとても楽しいのだ。それは鈴ちゃんも同じなのだろう。

 入力自体は順調だったはずだ。隣の里中君のデスクの書類が雪崩を起こすまでは。

 落ちた書類をしゃがみこんで拾い上げているうちに、誰かがオフィスにやってきた。

 あれは、あの声は……。

 ひとしきり、妃奈の不在に文句を付け、課長に要らぬ詮索をするなと言い渡していた男の方が、気配に気づいたらしい。足音が妃奈のデスクに近づいてきた。

 ――おや、こんなところでかくれんぼかね?

 デスクの下を覗きこみ、不敵に笑うその顔に、妃奈は瞠目して凍りついた。

 この顔。この声。私はこの人を知ってる。この人に、私は以前、どこかで……会ってるよね。

 ダメだ。思い出せない。もう少しで思い出せそうなのに……。


 あきらめて首を振り、お湯をバシャッと顔にかけた。深いため息をついて目を開けたところで、妃奈は、ここでも凍りついた。

 湯船の縁近く、少し浅くなった場所にゆったりと座り、両肘を後ろの岩に凭れさせている人がいる。

「考え事は済んだのか?」

「ここここここ皇帝!」

 慌てて鼻の辺りまで沈み込む。

 ちょっとぉぉ、リンってば、絶対バッティングしないって言ったじゃん! うそつき~。あれ? でも待てよ? リンはなんて言った? 御妃様達とは、バッティングしないって……。あぁ、なんてこと!

「先ほどから一人で難しい顔をしているようだが、何事か? 何か思い出したのか?」

 そう言われて、慌てて顔を両手で覆った。

「わ、私、難しい顔をしていましたか?」

 妃奈の問いに、アレクは頷いて、続けた。

「よほど、気になることを思い出したと見える。あまり構ってくれぬ恋人がいたことでも思い出したか?」

「い、いえっ、私……恋人なんかいませんよ」

 って、何? 私ってば、何をムキになって否定しているの? いや、それよりも、どうしてそんな具体的な形容がついた恋人像なんですか?

 湯気のまにまに、アレクが失笑しているのが見えた。

 もしかして、からかわれたの?

 一瞬、ムッとしたけれども、すぐに、まだお礼を言っていないことに気づいた。慌てて浮上する。

 そうだ。お礼。お礼を言わなくちゃだよね。

「あ、あの、陛下。私のような者に、この浴場の使用許可をくださいましたこと、とても感謝しております。ありがとうございました」

「構わぬ。いつでも好きに使うが良い」

 そう言いながら、アレクは、額に垂れた幾筋かの金の髪をかき揚げた。見事な筋肉がついた上腕二頭筋と厚い胸板。その逞しい胸元には金竜のネックレス。妃奈の胸にある銀竜と対になっているものだ。にわかに動悸がひどくなる。

 単なる幸運強化のためのペアだから。気にするな、私。

 なのに、アレクってば、髪をかき揚げる仕草さえ、やけに色っぽくて、目のやり場に困ってしまう。

 眼福……いや、目の毒だな。

 動揺して目を泳がせながらも、一方で、冷静になれるように、努めて頭をフル回転させる。

 落ち着け、私。げ、現実的なことを考えるのよっ。向うでピンチだったのだとしたら、戻った時もピンチだと考えるべきだ。いつ対策をたてるの? 今でしょ!

 アレクは私を召喚したのだと言った。しかも、私が記憶をなくしていることを知っている様子だ。だとしたら、アレクは、私がここに来た時の状態を知っているのではないだろうか。私が最後に向うで何をしていたのか、どんな人が私の近くにいたのか。それを聞くことができれば、あの声の主が誰なのか分かるかもしれない。

「皇帝陛下、もし差し支えございませんでしたら、二、三、陛下にお聞きしたいことがあるのですが……」

 アレクは怪訝そうに首を傾げた。

「差し支えあるな」

 え~、即答ですか?

 妃奈は遠い目になる。

「そちは離れすぎだ。よく聞き取れぬ。もっとこちらに寄るが良い。さすれば聞いてやってもよいぞ?」

 いやいやいやいや、それはちょっと……。だって、ここは浴場ですよ? 一糸纏わぬ姿なんですよ? 嫁入り前の娘が、浴場に男性と一緒にいること自体が異常事態なのに、更に相手は皇帝だという尋常ならざる事態。近くに寄るなんて滅相もない~。

「ならば、何も聞かぬ」

 首をぶんぶん振る妃奈に、アレクは拗ねたようにそっぽを向いた。

 え~。そりゃないでしょお。

「じ、じゃあ、ちょっとだけ、お側に参ります」

 妃奈は肩まで湯船に浸かったまま、よろよろと湯の中を進んだ。

 あ、歩きにくいよう。うわっととっ……。

 段差があったらしい。つんのめって湯船の中に沈む。

「大丈夫かっ? そちは何をしておるのだ」

 腕を掴まれて起こされる。起きあがった途端、きょとんとした風情のアレクと目があった。

「もしや、そなた、何も身につけておらぬのか?」

「え?」

 それって……それって、もしかして、ここでは何か身につけてお風呂に入るってこと?

 うわぁぁぁぁ!

 穴があったら、いや、なくても掘って埋まりたいのですがっ。

「そちの国では、湯衣を身につけて入る習慣がないのか?」

「ないです。だって、逆に湯船の中にはタオルさえ浸けちゃいけないことになってるし……」

 脱衣所にそれらしい布があったのは知っていたが、てっきり湯上がりに使うんだと思っていた。顔から火がでる思いだ。それでなくても湯に浸かりっぱなしで火照っているというのに……。

 クラクラし始めた。

 ううう。私は日本の入浴システムをこよなく憎むよ。

 背を向けて、更に深く湯に沈み込んでいると、ふいに背後から抱きしめられた。

 ええええっ?

「そちの国の習慣は、なかなか魅力的だが、余には少し刺激が強いようだ」

 あ、単に抱きしめたんじゃなくて、湯衣を巻いてくれたんだ。あれ? でもこの湯衣は、どこから?

「あ、あの……私の国では、特別な場合を除き、男女一緒には浴室に入りませんので、あの、その……」

「そうなのか? それはつまらぬな」

 耳元でふふっと笑うアレクに、固まる。

「それで? そちは余に何を聞きたいのだ? 申してみよ」

 みみみみ、耳元でっ、耳元で囁かないでくださいっ。心臓に悪いです。息絶えそうですっ。

「わっ、忘れましたぁぁ。放してくださいっ」

「ならぬ。思い出せ」

 うううう。これは一体なんのお仕置きぷれいですか?

「……私、この世界に来た時のことを何一つ思い出せないのです。皇帝陛下が私を召喚されたのなら、陛下は私が無くした記憶を、何かご存じなのではないかと思ったのです。そして、元の世界に帰る方法もご存じなのではないかと。もしご存知なら教えていただきたいと……。伺いたかったのは以上ですっ」

 仰せの通り、話し終えたのに、アレクが放してくれる気配はない。

「あのぉ、陛下? お約束通り聞きたいことは申し上げました。放していただけませんか?」

「帰りたいか?」

「はい?」

「そちは、本当に元の世界に帰りたいのか?」

「あの? はい……それは、もちろん帰りたいと思います。年老いた祖父が気になりますし……」

「祖父? そうか、おじい様は健在か?」

「はい。おかげさまで」

 何がおかげさまなんだか分からないが、常套句なのでつい続けてしまう。

「御両親は?」

「両親は……、両親は、私が幼いころに亡くなりました」

「……そうか」

 普通の人ならば、次に事故かと訊いて来るところなんだけど……。

 しかし、アレクはしばらく考え込んだまま、何も訊いて来る様子が無いので、妃奈も口をつぐんだ。両親の話は、できることならしたくない。

 少しのぼせたのかな。頭がぐわんぐわんする。

 そうか、と呟くように返答したアレクは、それでも放してくれる気配がなかった。

「あの、陛下? 私、そろそろお湯から出たいのですが……」

「妃奈、一つだけ、余の願いを叶えてはくれまいか。それを叶えてくれたら、そちを戻してやろう」

「……何ですか? 願いって」

「明日、余とともに行ってほしいところがあるのだ」


 妃奈は自分の部屋のベッドで伸びていた。リンが額に乗せてくれた冷たい濡れタオルが気持ちいい。

 あの後、結局、妃奈は温泉でのぼせて伸びてしまい、アレクに抱えられて浴場をでた。大失態である。さっさと穴を掘って埋もれておけばよかった。


 しかし、山登りねぇ~。

 一緒に行ってほしいところがある、といったアレクは、遥か彼方にそびえている山を指した。

 城の北側には、実に奇妙な形をした山々が林立している。その景観は、まさに珍百景。ケーキのモンブランのような、シナモンロールのような、とってつけたような形をしていた。山々の頂きはうっすらと白く雪化粧をしており、見た目は、まさにシナモンロールそのものだ。形こそそのようにメルヘンな山なのだが、しかし、その頂きは天を突くほど高くそびえている。アレクは、その中でも、ひときわ高い峻峰を指した。その頂きに行くのに付き合えと言う。

 マジですか、とは思ったものの、そこに行くのに付き合えば家に戻してくれるというので、そう口にするのは憚られた。

 しかし、いくら帰してもらえるとはいえ、またネプトゥヌスの恐怖の跳躍を我慢しなければならないのかと思えば、ゲンナリしてしまう。あの距離と高さじゃ、徒歩はきっと無理だよね。

 ここは一つ、さっさと眠って体力を回復させた方が得策かな。

 先ほど、リンが持って来てくれた湯あたり冷ましのお茶を一気に飲み干す。清涼な香りと冷たさが、妃奈を慰めるようにノドを下っていく。まもなく、心地よい眠気を感じて、妃奈は深い眠りに落ちていった。


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