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第六十話 落下

 その日の夜、妃奈は慎也に呼び出された。

 双碧宮の慎也のいる部屋まで案内するリンはとても険しい顔をしていた。話しかけても、必要最小限のことしか口を開いてくれない。

 なんだろ。私、リンを怒らすようなこと、何かしたかな?

「ねぇ、何か怒ってる?」

「いいえ」

 さっきからこればっかりだよ。

 そもそも、誰にも会いたくないと言ったのに、有無を言わさず引っ張ってきたのはリンだ。なのに、この態度はないと思うんだ。

 さっきまで気持ちに任せて泣いていたので瞼がむくんで重い。正直なところ、本当に誰にも会いたくなかった。

 双碧宮は、時折どこかで水音が響いて、まるで深海にいるような心地になる。

 水の気が満ちあふれている。

 ここの空気は清浄で、これはこれで気分はいいんだけど、何かひどく落ち着かない。何かの気が低く冷たく淀んでいるような。一旦、そこに踏み込めば抜き差しならないことになるような……。

 妃奈は豪奢な竜の飾りのあるドアの前まで案内された。

「中で慎也様がお待ちです」

 ドアの外で立ち止まるリンの袖をつまむ。

「リンは? リンも一緒に来てよ」

「……二人でお話ししたいことがあるそうです。私は入れません」

 つまんだ手をやんわりと外された。

 え~そんなぁ。

 更にゴネようとした私は、ドアの奥にぐいっと押しやられ、そのままドアを閉められた。

 なに? なんなの?

 ドアが閉まる寸前、リンの口から微かに漏れ聞こえたため息と呟き。

 ――どうしてこんな人が……。

 こんな人って、私? 私がどうしたって言うんだろうか。

 ひどいことをされているのは妃奈の方の筈なのに、リンはひどく傷ついた顔をしていた。

 裏切られたとでも言いたげな。

 首を傾げ、腑に落ちぬまま振り返り、部屋の中を見回して妃奈は眉間にしわを寄せた。

 慎也は奥の隅にあるライティングデスクに座って何かの書物を読んでいたようだが、今は視線を上げて妃奈を見つめている。少し灰色がかった髪にアイスグレーの瞳。

 他の竜族の人たちもリュシオン達ほど鮮やかではないけど、軽い光沢にも似たほのかな色をそれぞれ纏っている。

「急に呼び出して悪かったな」

 悪かったよ。

 心の中で即答する。

「何かご用ですか? 明日も午前中から会議なので、手短にお願いしたいのですが……」

 慎也は面白そうに小さく笑った。

 何が可笑しいんだか。

「随分熱心に会議に出ているようだ。何が目的なのかは知らないが、感心するよ」

「そんなことを言う為に呼び出したんですか?」

 妃奈は眉間にしわを寄せる。

 何が目的かって、レムス帝国の行く末を見ておきたいからに決まってる。そんなこと分かり切ってるじゃん。

 あれ? 待てよ。分かり切ってるのって変? 私ってば、もうすっかりレムスの人になってるよね。いつの間にか……。

 一人苦笑する。

「今日、会議の途中で出て行った後の顛末を聞きいておきたくてな。それに、おまえは俺の質問にまだ答えてない」

 慎也の質問。契約の実の件だ。

「アレクシオス陛下から契約の実は一つも受け取っていません。これで満足?」

 妃奈はムッとした顔で慎也を睨んだ。

「それは朗報だ。竜族は王族と、これからもうまくやっていけるだろう」

 慎也は満足げに嗤う。

「で? 銭塘君はなんと言った? 昼間、彼を捜しに議場を飛び出したんだろう? そう聞いているが?」

 なにその、なんでもお見通しって顔。そんな顔して、わざわざそれを聞くの?

「銭塘君は、私に竜族と王族の間の火種になるなって言ったわ」

「さすが始祖の竜、黒竜殿。よく分かっている。おまえに何を言えば納得させられるかもよくご存じだ」

 我が意を得たりと笑んだ慎也の髪が揺れて、銀色の光沢を弾く。

 私には金色の光沢があるのかな。あんまり気をつけて見たこと無かったけど。

 いや、別に無くたっていいんだけどさ。金竜じゃない方がむしろいいんだし……。

「慎也は、私にどうして欲しいわけ? シャルロ山に居て、何をしろと?」

「とりあえず、金竜殿には竜族とともに居てさえくれればいいさ。こちらの世界で新たな国を築く竜族には、一つでも多くの幸運が必要だからな。でも、いずれは、後の世に金竜殿の遺伝子を残しておいてもらいたい」

「……私はあなたを好きにはならないよ?」

 投げ出すように言う私に、慎也は苦笑した。

「まぁ、時間はたくさんあるからな」

 時間がたくさんあるのは竜型になった私にだけだ。人型の私には人としての時間しかない。

 だから慎也は私を竜型にしようと企んでいる? 私自身、自ら竜型になる方法は知らないけれど、不可抗力で竜型になってしまう方法は知っている。

 ――断脈縄。

 あれは元々、慎也の命令で着けられたものだったわけだよね?

「何を考えている? おまえは、俺が掴まえようとすると、いつもスルリと逃げていく。実に油断ならないやつだ」

 吐息さえも感じられるくらい近くで声が聞こえて、妃奈はぎょっと視線をあげた。

 体温が感じられるくらい近い。

「俺と共にこちらの世界にきたもの達は、向こうの世界で理不尽で辛い思いをしてきたものが多い。幸せになれる国を造りたいと思って来たものばかりだ。そのもの達に、おまえが持つ幸運を分けてやる気はないか?」

「幸運なんか、私、持ってないよ。仮に持っていたとしても、この国は竜族だけで成り立っているわけじゃない。だから私は、竜族の為だけには生きられない」

 そもそも幸運なんてものが形としてあることは、いいことなんかじゃない。

 妃奈は頭上にある慎也の顔を睨みつけた。

 金色の林檎は争いを生み出す。

 もし本当に私が強運などというものを持っているのなら、それは私自身の存在が、凶だということになるんじゃない?

 しかし、妃奈の思いとは別の意味で、彼女の言葉を不愉快なものと捉えた慎也は、目を細め、妃奈の顎を強い力で掴んだ。

「竜族のくせに、人族である皇帝アレクシオスがそんなに好きか?」

「そうじゃなくって!」

 そうじゃないのだ。

 その時突然、天啓が下ったように妃奈は理解した。

 そうか、やっと分かった。自分の立ち位置。

 妃奈は人族にも竜族にも等しい位置にいなければならないのだ。それを無視して誰か一人に寄り添えば、その人を不幸にしてしまう。向こうの世界でもそうだったじゃない。だから、たとえどんなにアレクを恋しいと思ったとしても、寄り添うことはできないのかも……。

 銭塘君はそのことを知っていて、示唆していたのかもしれない。私があまりにもアレクに傾きすぎているから。

 なんて孤独な立場なんだろう。

 だけど、それが自分の背負った運命にもつならば、下ろすわけにはいかないのかも……。

 しかし妃奈の思いをよそに、慎也は続ける。

「おまえのアレクシオスへの恋情は、卵の殻からでたばかりの雛が最初に見た者を親だと思いこむ刷り込みに過ぎない。だが、そんなもの、竜族の中で暮らしていれば、忘れてしまうほどのものだ」

 ちょっとー、なにを勝手に分析してくれちゃってるんですか? 人の話を聞きましょうよっ。

 妃奈は呆気にとられる。

「今、ここで忘れさせてやろうか?」

 え?

 ザワリと走る嫌悪感。妃奈は慎也から離れようとしたが、首に腕を回されて引き寄せられた。

「いやっ、離して! 話を聞いて!」

「そうだ、それがよい。昨夜も夜陰に隠れてコソコソとアレクシオスと会っていたようだし、おまえ、寂しいんだろう?」

 昨夜のアレクとの……見られてた?

 身をよじり、首筋に唇を這わせて愛撫し始めた慎也の手から逃れる。

「触らないでっ」

 慎也をふりほどいて、逃げようとドアに駆け寄った。ノブをガチャガチャと回すが、鍵でもかけられたのか回る気配がない。

 それを承知していたらしい慎也がゆっくりした足取りで近づいてくる。

「来ないでっ。来ないでって言ってるでしょ?」

「アレクシオスのことなど忘れてしまえばいい。竜主でもない人間に拘る必要もない。今宵、おまえを呼び出したのは、このままおまえをシャルロ山へと連れて行くためだった。おまえが人型でいることに拘るのならばそれでも構わない。だが人の寿命は短い。しかも脆弱だ。長く待つことはできない」

「あけてっ! あけてよぉぉ! リン、居るんでしょ?」

 慎也の思惑を、リンは知っていたに違いない。

 ならば、リンのあの表情は、あの態度は、妃奈へではなく、慎也へ向けられたものではなかったか?

 だけど、ダメだ。今の慎也には、妃奈の思いもリンの気持ちも届きそうにない。

 だけど、自分の立場に気づいた今、このまま慎也の思惑のままに、シャルロ山へ行くこともできない。

「リン! リンはこんなやり方、納得してないんじゃないの? お願い、ここを開けてっ」

 妃奈は声を張り上げてドアを力の限り叩く。

 こんなやり方は卑怯だ。

「リンを説得するつもりか? 無駄なことを。リンが俺のやり方に反対するわけがないだろう?」

 やめようよ。その俺様的トップダウン構造! そんなやり方で、誰もが幸せになれる国なんか造れるわけないよ。

 しかし、妃奈の抵抗も虚しく、両手を拘束され、口づけられた。唇を割って侵入しようとする舌を拒んで強く口を閉じていると、舌打ちをされて、引きずられるように寝台へ運ばれる。

 寝台の上に投げ出された妃奈は、弾みで反対側の縁まで転がった。視界の先に、窓が開いているのが見えて、妃奈は思わず窓に駆け寄った。

 ここの部屋の窓には、ガラスがない。ただ外へと開いているだけだ。翼を持つ竜族にとっては、窓も出入り口の一つに過ぎないのかもしれない。

 ここから逃げられるんじゃない?

 だけど、双翠宮と同じ造りなら窓の外は崖だよね。そうは思いつつも、下をのぞき込んで妃奈はクラリとする。

 案の定、断崖絶壁だ。双翠宮と違うのは、遙か下に小さな水たまりのような滝壺が見えていることだろうか。滝が断崖の途中から流れ出していた。

 窓の下でへたり込む妃奈の様子を見た慎也が小さく笑んだ。

「竜のくせに高いところが苦手というのは本当なんだな。何もシャルロ山まで行かずとも、おまえならここにだって簡単に閉じこめられそうだ」

「来ないでっ!」

 息も絶え絶えになりながら、妃奈は震える唇で旋律を奏でる。

 逃げなきゃ。来て!

「それは……」

 目を見開いて、妃奈に駆け寄ろうとした慎也の手から逃げるように窓枠に立つと、その高さに竦んだ妃奈は、よろめいて、そのまま足を踏み外した。

 万事休すだ。これが私の運命なの?

 実際のところ、その旋律は紫竜には届かなかったようで、紫竜が現れる気配はなかった。

 落下しながら、妃奈は絶望的な気持ちで名を呼んだ。もう二度と会えないだろう、愛しい人の名前を。

「アレク……」

 気を失ったまま、妃奈は滝壺に叩きつけられた。


 アレクの元に、竜妃失踪の一報が届いたのは、夜も更けた頃だった。双碧宮の騒ぎに気づいた銭塘君が強引に探って、ようやく、妃奈の落下の情報を手に入れたのだった。

「何があったのだ!」

 詰め寄るアレクに、慎也は放心した様子で、手違いで妃奈が双碧宮の窓から落下したのち行方不明になったことを認めた。

 王族および竜族による合同の捜索が直ちに始められ、滝壺から流れ出している河川にまで拡大して行われたが、その行方はようとしてしれなかった。



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