第五十九話 火種
回廊を抜け、王宮の部屋という部屋の扉を片っ端から開けて回った。
銭塘君の名を呼びながら。
あの時、湖を埋め尽くした金色の実は、ひどく芳しい匂いで、妃奈の心を惹きつけた。紫竜が少し離れたところでそわそわしているのを横目に見ながら、竜でもない自分がこんなに惹きつけられるのはおかしいでしょうと自分に言い聞かせて、銭塘君が美味しそうに食べるのを見ていたのだ。 その時、アレクが金色の実を差し出した。躊躇うように。見かねたように。
――そちも食べてみるか? と。
なのに……。
バンと開けた扉の向こうに銭塘君は、いた。黒髪に少しつり目の細く鋭い瞳が、横目でちらりと妃奈を捉える。
その部屋は、王宮で働いている人たち用の食堂なのか、たくさんの長テーブルと椅子が並んでいた。食事時でないガランとした雰囲気のその場に、賑やかにさえずるように響く女の声。深い紫色の髪と葡萄酒色の瞳の女を膝に乗せた銭塘君は、まんざらでもない様子で、こっくりと赤いワインを片手に笑みを浮かべている。
つかつかと歩み寄り、二人の前に仁王立ちになった。女が怯えた様子で銭塘君に身を寄せ、妃奈を見上げたが、知ったこっちゃない。
「よぉ、妃奈。おまえも飲むか?」
ところが銭塘君は、いたって暢気にグラスを掲げてみせた。そんな銭塘君をねめつける。
「どうして? どうして金色の実を私から取り上げたのっ?」
アレクが妃奈に差し出した金色の実を、あの時、銭塘君は取り上げた。
――おまえは食うな。
そう言って……。
あの時、一つでも金色の実をアレクから受け取っていれば、アレクは妃奈の正式な竜主になっていたはずだ。なのに、妃奈は契約の実をアレクから受け取っていない。つまり、ホームランを打ったのにも関わらずホームベースを踏んでいないのと同じ状況なのだ。
「どうして……?」
銭塘君は女の耳元で何かを囁くと、彼女は渋々と言った感じで銭塘君の膝から下りると、最後に妃奈をねめつけてから、部屋を出ていった。
「……おまえに言っとかなきゃならないことがあった」
銭塘君はグラスのワインを干すと、更にボトルから継ぎ足した。
「おまえの母親な、命をとりとめた」
母さんが!
喜色を浮かべる妃奈に、銭塘君が苦笑して言葉を続ける。
「あぁ、でもまだ喜ぶのは早いぜ? 今は昏睡状態だから話すこともできねぇ。しかも、ダメージの具合からして意識が戻るのは、そうだな、百年くらい先になるかな……」
ひゃくねん? そんなの、私がもう話せないよ。死んでるよ。
眉を落とす妃奈に、銭塘君はクスリと笑う。
「母親と再会したきゃ、おまえはどこかで竜型になるしかねぇ。竜型になるのは嫌か?」
妃奈は唇をかむ。
「慎也が、竜妃をやめてシャルロ山に行くか、竜型になって王宮で竜妃を続けるかどっちかにしろって……」
嫌かって……どうしてそんなことを訊くの? そもそも銭塘君が竜型にはなるなってアドバイスしたんじゃない!
「昨日、南方にある孤島に行ってみたんだが、竜族の遺跡、あれ、もうダメだな。何もかも新しくやり変えないと使えねぇ。これから竜族は大変だ。少しでも楽に物事を進める為なら、なんでも欲しいところだろう。それが、たとえ意味のねぇ信心ものでもな」
妃奈は沈黙する。
「その島の崖一面にな、きれいな黄色い花が咲いてたよ。あれ、なんて花なんだろうな。岩だらけの土なんかねぇだろって所に咲いてんだよ。花は種が落ちる場所を選べねぇ。落ちたところで咲くしかねぇんだよな。でも、咲いた花は、そりゃ見事で美しいもんだ」
「銭塘君は、私に竜として生きろって言ってるの?」
妃奈はイライラした口調で問う。
「どうしろとも俺は言えねぇ。ただ、後悔しないように気をつけろって言ってるだけだ。おまえが金竜として生まれたのは誰のせいでもねぇ。だが、金竜のもつ強運をどう使うのかはおまえの責任だ。争いの火種になんか、おまえはなりたかねぇだろ?」
争いの火種……?
「おまえに、契約の実を食べさせなかったのは、おまえにその選択の余地を残すためだった。契約を結んでしまっていれば、その契約を覆すために、竜族は非道なやり方を選んでしまうかもしれない。俺は、竜族と王族の間に禍根を作りたくねぇ」
非道な……やり方?
背筋が寒くなる。それは、たぶん私と契約を結んでいれば、アレクは無事ではいられなかっただろうということだ。
動揺する妃奈に、銭塘君は続けた。
「これは単なる俺のわがままかもしれねぇが、俺はレムス帝国にそんな黒い歴史を刻みたくなかったんだ。ここは……レムスと俺と金竜が、誰もが幸せに生きられる良い国をと望んで造った国だから……」
妃奈はひっそりと涙を流す。
誰もが幸せに生きられる国? そんなの嘘じゃない。そんなのありっこない。
もし、そんな国が本当にあったとしたら、それは上辺だけのことで、たぶん、誰かの涙の上にできた幸せの国なんだ。そう思う。
だって、火種にならない生き方をするなら、私はたぶん幸せにはなれない。しかもそれは、気が遠くなるくらいの年月続くのだろう。それを思うと、目の前が灰色になった。
自分の幸せか、国の幸せか。二者択一。
でもそれは、選択の余地がないのと同義に聞こえた。
がっくりと肩を落としたまま部屋を出ていこうとして、妃奈はふと思いつく。
百年後、母の意識が戻ったとして、剣から出てこれるんだろうか。その時はまた、母も金竜として生きなければならないんだろうか。
「ねぇ、百年後、母さんは剣の中から出てこれるの? 出て来たときには、やっぱり金竜の姿で出てくるのかな?」
「意識が戻るのが百年後だって言ったんだよ。出てこられるまでになるには、更に数百年かかるだろうよ」
ずいぶん壮大な話だ。妃奈はため息をつく。
「それから、これは良い話なんだか悪い話なんだか分からないが、恐らく栞奈はもう金竜じゃない」
え?
「おまえら金竜が何故強運を持っているかというと、金竜には気脈や水脈や地脈から流れ込む運気をため込む器があるからなんだ。だけど、栞奈の場合、レムスの隧道を造っちまった段階でその器が壊れていたようだ。だから回復に時間がかかってる。普通の竜族よりも回復が遅いくらいだ。だから、回復しても竜にさえなれないかもしれない」
「つまり、それって……」
「回復しても、芯をやめてしまえば、すぐに人族としての寿命が尽きるってことだ」
つまり長く生きようと思うなら、もう剣の芯であり続けなければならないってこと?
「そう言うわけだから、おまえが竜になった時には、この剣はおまえに返そう。だが、人型のおまえにはやれない。寿命が足りない。そういうことだな」
「……母を頼みます」
そう言いおいて、妃奈は部屋を後にした。
好きで金竜に生まれたわけじゃない。
争いの火種になりたいわけでもない。
ただ、アレクの傍に……逃げるのをやめろ、安息の地をここで切り開けと言ってくれた人の傍に、居たかっただけだ。
なのに私が居れば、アレクがくれると言った安心して暮らせる国は実現しない。それどころか、私自身のせいで、アレクの命まで危うくしてしまいかねない。
昨夜の、少し照れくさそうな顔のアレクが脳裏に浮んだ。
――駄目だな。そちには自分の望む生き方を選べなどと偉そうなことを言っておきながら、ほんのしばらく会えなかっただけで、これだ。そちが足りぬ。もし、そちが向こうの世界に戻ってしまおうものなら、余はそち欲しさに向こうの世界まで追いかけてしまうかもしれぬ。
妃奈は息を呑んだ。
これは、私がずっと欲しかった言葉だ。
胸の中を何か温かいもので満たされて、嬉しい気持ちが溢れ出す。
――私はずっと陛下のお傍に……。
おります、と言い掛けた妃奈の言葉を、しかしアレクは遮った。
――駄目だ妃奈。今はそれを決断する時ではない。簡単に口にしてはならぬ。そう言わせるように仕向けた余が悪かった。竜族と王族とそちと、三者が納得のいく国を目指そう。多少時間はかかるかもしれぬが、急いで決めたところで、誰かが不満に思うなら、先で歪みが出る。急いてはならぬ。余はそう思う。
三者が納得のいく国なんて造れるのかな。
疑わしそうに眉間にしわを寄せる妃奈に、アレクは小さく吹き出した。
――そのような目をするな。余を信じよ。
そう言って、アレクは何度も口づけを落とした。
少し高いアレクの体温。
熱い吐息も、私に触れる長い指も、何度も私の名を呼ぶ心地よい低音の声も、すべて私のもの……そう思ってもいいの?
幸せだった。
昨夜は、こんなに幸せでいいのかと思うくらい幸せだったのに。
私の望む幸せは、追いかければ逃げる逃げ水のようだ。手を伸ばせば、遠くに逃げていく。
逃げるように駆け戻った王宮の自室で、妃奈はひとり、声を殺して泣いた。




