第五十五話 氷晶宮
灯火が揺らめく浴場で、妃奈は鼻下まで湯に浸かりホッとため息をついた。ここはネメア城氷晶宮最奥にある野外風呂だ。辺り一面雪景色でしーんとしている。
とても美しいのだけど……寒い。とにかく寒い。
なぜ暢気に風呂などに入っているかというと、母を魔導具であるレムスの隧道から引き出した際、妃奈も大量の水を浴びてしまったことと、レムス王宮に戻っても、夜が明ければすぐに公式行事だから、ここで身体を清めておけば、その分準備が簡単になるとアレクが言い出したからだった。
そんな時間があるのかと問う妃奈に、アレクは自らを王宮へ逆召喚する秘策があるので、すぐに戻れるから時間は気にしなくてもよいと言う。
なんだろ、秘策って……。
だけど、他国の、しかも国交が不安定だというネメアで、暢気に風呂なんか入れるのかな。
しかし、これにもアレクは問題なかろうと言った。
確かに、衛兵も女官も、まるでアレクが城主であるかのように対応しているようだけど……。
ネメアとは国交が不安定だってリンは言ってたはずだけどなぁ……。そもそも、彼女たちはここに向かっているのかな? アレクの怪我の情報が嘘だったように、こちらに向かうと言うのも嘘だったの? リンはあの女官に騙されたってことなのかな。それとも……。
あああ、頭がゴチャゴチャしてきたよう。こんな状況でも公式行事決行なのかなぁ。銀竜になった慎也は、あの後どうしたんだろうか。 そう言えば慎也がよくしてもらっていたというクリスティーナ様はどこにいるんだろう。
考えれば考えるほど懸念材料は増えて行くばかりだ。
妃奈は顔にお湯をバシャバシャと掛けた。
あぁ、もう駄目だ~。混乱、混乱~
母、栞奈を封入したフツノミタマは、銭塘君が持つことになった。
母の意識が戻れば、自らコンタクトしてくるだろうと銭塘君は言う。それまで待つしかないらしい。
――この剣は俺が持っていてもいいか? 同じ竜仲間として、かつて芯だったものとして傍に居てやりたいんだが……。あ、いや、妃奈が持っておきたいのなら止めないけどな。母親なんだし。
銭塘君の言葉に妃奈は小さく首を振った。
――私じゃ何も分からないから。銭塘君、母を、よろしくお願いします。
未だに自分や母が竜だという自覚はない。
一日も早く回復して、話ができるといいんだけどなぁ。
母にも色々聞きたいことがあった。
微かな足音がして、湯気の向こうに人影が現れた。
「妃奈よ、ちゃんと湯衣を着用しておるか?」
アレクだった。
実は、浴場に向かう前に、話があるのできちんと湯衣を着用しておくようにとアレクに耳打ちされていた。
「着てますよ。もうこちらのやり方は分かったんですから、着用せずに入ることなんてありませんっ」
妃奈は渋面で答える。
「そちには驚かされることが多いから、念のためにな」
笑い含みの声に、ふくれっ面になる。
そんなこと多いかなぁ。むうう。
優雅な動作で湯に沈むアレクをちら見して、でも、すぐに目をそらした。
いくら湯衣を纏っているとはいえ、アレクの厚い胸板や引き締まった二の腕や、露わになった鎖骨を目にすれば、どうしても動揺してしまう。逆に、自分の起伏に乏しい体の線も露わになっているのだということに思い至って、妃奈は心持ち深く湯船に沈んだ。
「王宮に戻る前に、そちには話しておきたいことがあったのだ。ここならば人払いもしやすいからな」
そうだった。私もアレクに確認しておきたいことがあったんだった。でもその前に、なんだろう、話しておきたいことって……。
「なんですか? 話しておきたいことって」
「レムス帝国のそもそもの話だ……」
アレクはそう前置きをしてから、語り始めた。
その昔、レムス帝国を築いたのは、金色の髪を持ち金色の竜を連れたレムスという名の青年だった。だが、彼がレムス帝国を築く前にも国は存在していたのだ。
それが竜王が治めていたシャルロ国だった。翼竜の築いた国。その都はシャルロ山にあった。翼を持つ竜族たちが築いた都市は、今も各地の山頂に点在している。翼を持たぬ人族が、山で道に迷って行き着いた竜族の町の様子が、旅行記などに残されている。『幻の空中庭園』『絶海の巨城』などと呼ばれている遺跡がそれに当たる。
それが、ある時期を境に衰退し始める。
「理由は何だと思う?」
え~、理由? 向こうの世界で恐竜が滅びたのは彗星の衝突だって言われてるけどなぁ。こっちの竜は文明を築いてるんだし、違うかもなぁ。
「なんだったんですか?」
「原因不明の竜口減少だ」
竜口減少……って、つまり人口減少ってこと?
レムスがこの地にやってきた時、既に竜は減少の一途を辿っており、シャルロ国は、首都に僅かに残った竜と麓の村々で増加していたカラフルな髪と瞳を持つ人族とで構成された国になっていた。
そこに、どこからともなく、人族と竜族の夫婦がやってきた。彼らを仲立ちとして新たな人族と竜族の国を造ることは、自然な成り行きだったのだろう。そして、新たな国を造るに当たって、レムスは竜族と契約を結んだ。レムス王族は、シャルロ山を竜族の聖地として安堵し、逆に竜は、王族に聖地を安堵してもらう代わりに、国を守護する竜を王族に貸し出すという契約だ。
「へぇぇ、その契約でこの国は成り立ってるんですか。不思議ですねぇぇ」
不思議なレムス帝国の成り立ちに、妃奈は目を丸くする。
「そして、ここ数年、いや数十年にわたり、レムス王族の人口は減り続けておる。かつての竜族と同じ状況なのだ」
あ……。そう言えば、王宮で小さい子って、テオ殿下の子くらいしか見てないなぁ。
「そこに、そちたち人族に変化できる竜族の到来だ。これは天の啓示なのではないかと余は考えた。シャルロ山の割譲は、銭塘君や妃奈、そち達が人族に変化できる竜族だと分かった時点で既に考え始めておったことなのだ。銭塘君に話したら、そちを竜妃として統治させてはどうかと言う」
あ……やっぱり、竜妃って、単なる役職名? なんか、それっぽいね。
私が訊きたかったことは解決したみたいだ……。
落胆した妃奈にアレクは気づいた様子はなく、淡々とした表情で続けた。
「そこで、余がこちらに来る前に、銀竜であることが判明した彼にも、同様の条件を提示したのだが、彼はそれでは納得がいかなかったのだろう。そちに近づいたということは、そちの力も取り込んだ上で、レムス帝国ごと乗っ取ろうという算段なのやもしれぬ」
ええええ~。慎也ってば、なんつー剣呑なこと考えてるのさ~。だけど……私を取り込んで何かいいことでもあるのか……な?
「でも、慎也が、私の力なんかを必要とするとは思えないんですが……」
私の力が必要なら、あの態度はないよねぇ。
「銀竜は強い。竜の中では恐らく最強だ。あらゆる力を使うことができるそうだ。銭塘君がそう言っていた」
あぁ、それであの態度? なるほど。納得。
妃奈は眉を下げる。
「最強なんですか? では、益々私の力なんか要りませんよね?」
「一方、金竜は弱い。飛ぶ以外の力を持たぬと聞いている」
妃奈はガクッとこけそうになる。
飛ぶ以外力を持ってないのか、私は。なのに高所恐怖症なんて、何のとりえもない竜ってことじゃない? 存在意義なさ過ぎでしょう。トホホだよ。
「……なんか、私って存在する意味がない竜なんですね。ってか、自分が竜だなんて、未だに自覚ないけど……」
遠い目でつぶやく妃奈に、アレクは小さく吹き出した。
「そこまで卑下せずとも良い。そちもなかなか捨てたものではないぞ? 金竜は強運を持っているのだからな」
そんな、目に見えない、あるかどうかも分からない力を持ってるって言われてもなぁ。
妃奈は心の中で自嘲する。
「力と運が合わされば、この世界で一大帝国を築くことも夢ではないだろう。そうなれば、レムス帝国など吹っ飛んでしまうやもしれぬな」
それは大事じゃないですかぁ! そんな暢気そうに笑って言うことじゃないでしょお!
「まぁ、そうなればレムス王族は新天地を求めて旅立っても良いのだ。そちが気にすることではない。どう生きるのか選ぶが良い。それはそちの気持ち次第だ」
え? 選ぶ? 何と何を?
「銀竜殿と竜族の国を再興するも良し、竜妃としてレムス帝国に留まるも良し、こちらでのことはすべて忘れて元の世界に戻るも良しだ。そちの行動はそちが決めよ。それは銀竜殿も了解済みだ。公式行事では、竜妃着任の詔とシャルロ山割譲の宣言をする。数日後、竜妃として初勅を発する時までにどうするか決めれば良い」
竜妃として初勅を発するぅぅぅ? ナニソレ……自分のことながら、何をどうするのかさっぱり分からない。ってか、自分事とも思えない。
「あの……すべて忘れて向こうに帰ると決めた場合は、どうしたら……」
「その時は、すべての竜妃としての権限を銀竜殿に渡すことを宣言すれば良いだろう」
ふーん、そうなんだ。
淡々と説明するアレクに、なんだか心がモヤモヤする。
なんだろう、これ……胸の奥が、ズキンズキンと脈打つように痛むよ。
「あぁ、そうだ。これは伝えておかねば公平ではないな。竜として生きるならば、そちは人の何倍もの寿命を手に入れることになるらしいぞ? だが、人のままで居れば、人としての寿命を生きることになる。まぁ、竜として生きることがどのようなことなのか、余にはよく分からぬゆえ、その辺のことは銭塘君にでも訊いてみるがよい。よく考えて、どのように生きるか決めよ」
竜として? 竜の姿で生きることってことだろうか。つまりアレクなしに、竜族の国で生きるってこと? 人の寿命の何倍もの年月を?
一瞬、世界が白黒になって見えた気がした。
眼前に広がる、この一面の雪のような白と、星もなくただ低く垂れ込めた、この漆黒の闇のような黒と、ただそれだけの世界に佇む自分。
ふと、その中に流れた一筋の光に、妃奈は思わず手を伸べた。
「アレクは? アレクは、私がどうすればいいと思いますか?」
アレクは伸ばした妃奈の手をやんわりと包み込むと、弱く笑んだ。
「そちが幸せで笑顔でいられるのが良いと思う。王族も竜族も関係なく、そちが、そちらしく幸せに生きられる道を選ぶが良い。そうできるように道は敷いたつもりだ。自分の為に生きること、それは余が王族であるが故に、一番に切り捨ててきたことだった。だから余の代わりに、そちは自分の気持ちを一番に考えて生きよ。それが余の望みだ」
そう言うと、包み込んだ手を放し、アレクは妃奈と視線を交わすことなく浴場を後にした。
大きな手に包み込まれていた自らの手を抱きかかえ、妃奈は静かに落涙する。
なにそれ……アレクは私の竜主じゃなかったの? 主を失った竜は、どうしたら幸せに生きられるの?
ポタリポタリと湯面を打つ微かな音は、漆黒の闇に吸い込まれていった。




