第五十三話 再会
手と手を絡ませ、脚まで絡ませてアレクにしがみつくポムポムを、妃奈は床に転がったまま遠い目で見上げる。未だに蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされたままなので、為す術なく見ているしかない。すぐに銭塘君が駆け寄って、糸を切ろうとしたのだけれど、
――妃奈に触れるなっ、そちは奥に行っておれ!
というアレクの一言に、銭塘君は軽く肩をすくめるとドームの奥へ姿を消してしまった。
ええええ~、そりゃないでしょおおお。
一方、ポムポムは、アレクに向かって何かを訴えているかのように、チィチィと高い声で鳴いた。
鳴いた! 蜘蛛が鳴いたよ!
妃奈は呆気にとられるが、巨大蜘蛛のポムポムに絡みつかれたアレクは、まるでふわふわの子猫がじゃれついてきたとでも言いたげな甘ったるい声で話しかける。
「そうかそうか、怖かったのだな? ポムポム。可哀想に」
いや、可哀想なのは私だと思うのですよ? 不安で、会いたくて、めいっぱい無理をしてようやく会えたのに……放置ぷれいですか?
だけど、恨みがましくアレクとポムポムの抱擁を見ているうちに、段々笑えてきて、妃奈は一人くすくすと笑い出した。
アレクってば、茶色のピンクドット柄のクッションに話しかけているみたいだ。
妃奈の含み笑いの声に、怪訝そうな顔をしたアレクは、しばらく隅で大人しくしているようにとポムポムに命じ、自らが羽織っていたチェック柄のマントを頭から被せた。いつも王宮の地下にいるポムポムには、ここは眩しすぎるのだろう。
アレクは、明らかに不機嫌そうな顔で妃奈の元にやってきた。
「さて、妃奈よ、そちは何故ここに召喚されたか分かっているのか?」
ポムポムに話しかけていた柔らかな声色とは明らかに異なった低い声だ。床に転がったままの妃奈の傍らに跪き、床の上で波打っている妃奈の髪を一房すくいあげると、アレクはそれを唇に当てた。
甘やかなその動作とは裏腹に、鋭く射抜くような瞳には冷ややかな怒りが含まれている。
「え? あの……どうして、私は召喚されたんでしょう……ね?」
うあぁ、怒ってる。皇帝陛下怒ってるよぅ。
怖くて逸らしたいのに、ラピスラズリの瞳から目を逸らすことができない。震えながらも吸い寄せられるように見つめてしまう。
「そちの足首につけた鎖は、単なる偽物の断脈縄ではないのだ」
気づけば、妃奈の足首につけられたフェイク断脈縄が、バラリと解けて妃奈の足下に蟠っていた。某かの力を失って力尽きたように。
アレクは続けた。
「この鎖には、ポムポムの糸と余の血と髪を芯に使ってある」
危険を察知したポムポムが妃奈に触れることで、アレクの元へ召喚するよう仕掛けを施された魔導具だったのらしい。
つまり、私は常にポムポムの監視下にあったということ?
「不測の事態を考慮しての魔導具だったのだが、まさか、ポムポムごと召喚されるような事態を招くとは……。そちはいったい何をしておるのだ!」
そう言いながら、アレクは蜘蛛の糸でグルグル巻きにされたままの妃奈を抱き起こし、睨みつけた。
「ごめんなさいっ。で、でも、アレクが怪我をしたって、血濡れのマントがネメアから逆召喚されたって、女官がやってきてそう言うから、私、心配で、アレクに何かあったらどうしようって、心配で……」
何はともあれ、アレクは無事だったんだ。怪我もしていないようだ。血濡れのマントはアレクのじゃなかったのかな? 誰か他の人の? だけど、一先ずアレクが無事で良かった。
考えているうちに、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
そんな妃奈の様子に、アレクは深いため息をつく。
「……妃奈は莫迦だな。そんな、子供だましの嘘に惑わされて……」
え? 嘘? 嘘だったの? もしかしたら単なる間違いだったのかも? だけど……。
「だけど、アレクに何かあったら、この世界は、私にとってのこの世界は、白黒の世界になってしまうから。だから、居ても立ってもいられなくって、だから……」
しゃくりあげながら、賢明に言い訳をする妃奈に、アレクは口づけた。そして困ったように瞳をのぞき込む。
「よい。分かったからもう泣くな。そちが泣くと余はどうしたらよいのか分からなくなるようだ。泣かずに話してみよ。何があった? この様子では、あの部屋からただ抜け出しただけではないのだろう?」
アレクは、叩かれて赤く腫れた妃奈の頬を指でなぞる。
はっ、そうだった。双翠宮の地下で起こったことを話しておかないと!
妃奈は、アレクの窮地を知らせに来た女官のこと、ネメアに向かっているだろうアデルとリンのこと、自分もネメアに向かおうとして地下通路へ続く床板を外したら、部屋にいた慎也ごと突き落とされたこと、地下で蜘蛛達に囲まれたこと、慎也が向こうの世界から運んできた品々のこと、向こうの世界のものを使うことをやめさせようとしたらひどく叩かれたこと、そして、彼が妃奈と同じように竜に変化したことを思いつくままに語った。
「……そうか、銀竜殿はシャルロ山の割譲のみでは納得せなんだか……」
あれ? アレクは慎也が銀竜だってことを知っていた? 驚いて見上げる妃奈に、アレクは続けた。
「その話を始めると長くなる。その前に、そちにはやってもらいたいことがあるのだが良いか?」
「やってもらいたいこと……ですか?」
妃奈は首を傾げる。
「そうだ。実際のところ、まさにそちを召喚しようと思っていた矢先だったのだ。手間が省けたといえばそうなのだがな。実は……おぉ、うっかりしていた。その前にそちを楽にしてやらねばならなかった。余としては、そちが大人しくしておるよう、しばらくそのままでも構わぬのだが、蜘蛛の糸というものは存外息苦しいものだからな」
じっとしておれよ、そう言うとアレクは佩刀していた剣をスラリと抜いた。妃奈をグルグル巻きにしている蜘蛛の糸を注意深く持ち上げると、ツィーっと布を裁ちきるように切り開く。途端に拘束がはずれて息が楽になった。あんなに柔らかな蜘蛛の糸がこんなに身体を圧迫していたことを、はずれた今になって感じる。
妃奈は大きく息を吸い込んだ。
「ありがとうございます。すごく息が楽になりました」
「これに懲りて、もう無茶をせぬことだ」
仏頂面のままアレクは妃奈の手をとると、広間の奥へと誘った。
奥の間には豪奢な縁取りの大きな鏡が掛けられていた。金色の精緻な彫りが施された縁の鏡なのだが、そこには何も映し出されていない。ただ乳白色の煙が渦巻いているだけだ。そして、その前でしきりに呼びかけている銭塘君が居た。
ずいぶん大きな鏡。でも、何も映っていないのはどうしてなんだろう。
「よう、妃奈。久しぶりだな。蜘蛛の糸からやっと解放されたか?」
銭塘君が嬉しそうに妃奈に駆け寄って抱きしめる。妃奈の知る銭塘君は妃奈の腰くらいの丈しかなかったのに、今では妃奈よりも拳一個分くらい背が高い。
「銭塘君、ずいぶん大きくなったねぇ。もう私よりも背が高いじゃないの」
驚く妃奈に、銭塘君は、まぁなと得意げに笑う。
「銭塘君、さっさと片づけるぞ。銀竜殿が動き出したとなると、王宮が心配だ」
「あいつ、やっぱり動き出したか。大人しく閉じこめられてはいないだろうと思ってたぜ」
銭塘君はニヤリと笑う。
この様子だと、銭塘君も慎也のことを知っていたらしい。慎也はあの後、どうしただろうか。王宮の人たちにひどいことをしていないと良いけれど……。
「私は、何をすればいいんですか?」
「この鏡は魔導具の一種で、こちらの世界と異世界をつなぐ隧道になっておる。いわゆるレムスの隧道と言われるものだ。だが惜しいことに、これは壊れている。普通ならば通す筈のないものまで通しているようだ。ここ数年の天変地異は恐らくこれのせいだ。これが、この世界の気脈を乱しているのだ」
本来のレムスの隧道は、こちらの世界に存在しない物質でできたものは通さないし、向こうの世界にないものは向こうに行けないものなのらしい。だから、向こうには存在しない竜の姿では行けないし、こちらにない殺虫剤などというものが来ることもないはずなのだ。
よって、この有害なレムスの隧道は撤去する必要があるらしいのだが、とはいえ、むやみに破壊するのは忍びない。魔導具には芯があり、破壊するということは芯を殺すことを意味する。できることなら芯を説得し、穏便に魔導具の力を解除したいのだと言う。
「でも、私、どうすればいいのか分からないし……」
「妃奈、おまえさぁ、双子の姉妹がいるだろ? そいつの名前を呼んでみてくれねぇかな。真の名前が分からなければ交渉すらできない」
妃奈はきょとんとした顔で首を傾げた。
双子の姉妹?
「私、双子の姉妹なんていないよ?」
「あぁ、悪い、あんまり似てるから双子だと思いこんでた。双子じゃなくても姉だか妹だかいるだろ?」
妃奈は一人っ子なのだ。姉も妹もいない。
「そんな筈はねぇんだがな。だって、おまえにそっくりだったんだぜ? 鏡の芯になってる女」
鏡の芯になっているのは、女性で、しかも私にそっくりだったのだとアレクも言った。一瞬だけ姿を表したのだが、すぐに引っ込んでしまったらしい。
そう言えば、以前、銭塘君は召喚魔法を補助・追跡できる魔導具の鏡の芯だった。この鏡もそうだってことなのかな。で、その芯が私にそっくりだってこと?
その時、妃奈の脳裏に母の首筋にあった竜の片翼の痣が浮かんだ。
年こそ違うものの、母と私は良く似ていた。母の首筋にあった痣もまた、竜の証だったのだとしたら? 竜だったのならば、母が魔導具の芯になっていたとしてもおかしくはない。実際、私は母の遺骸を見てないのだし……。
「まさか、母さん? 母さんが芯に……芯になっているの?」
「妃奈、名前を。母の名を呼んでみよ」
アレクに促されて、妃奈は頷いた。
「か、母さん? あなたの名前は如月栞奈なの?」
鏡に向かって妃奈が呼びかけると、その声に応えるように、乳白色の霧は徐々に薄くなっていった。やがて透き通った鏡面に妃奈と同じ年頃の、妃奈と瓜二つな顔を持つ女が現れた。あまりにも自分にそっくりなことと、母にしては若すぎるその面差しに妃奈はたじろぐ。
『……妃奈、妃奈なの?』
妃奈にそっくりな女は、妃奈の名にも反応した。
「母さん……なの?」
妃奈はゆっくりと鏡に歩み寄り、手をかざす。鏡の中の女も同じように手をかざし、手と手が重なり合う。二人の動作が重なって、一瞬、普通の鏡になったのかと見まごうほどだ。だが、鏡の中の女は涙を流していた。
『妃奈……ずっと、ずっと、あなたのことを心配していました。ずっと、ずっと、あなたの無事を祈っていましたよ』
「母さん……一体何があったの? 父さんも一緒なの?」
栞奈は弱々しく首を横に振った。
妃奈の母、栞奈は、自分と妃奈の父親に起こったことを妃奈にすっかり話して聞かせた。
父の会社の資金繰りか難しくなってきたあたりから接触してきたのが慎也だったらしい。彼は母の首筋にある痣について研究をしているのだと言った。融資する代わりに研究に協力してもらいたいという。少々度が過ぎた母への執着ぶりに、父も母も頑なに断り続けていたのだが、父の会社が倒産したのをきっかけに、そのカルトめいた研究グループに捕まって監禁されたのだそうだ。罠だとも知らずに母を助けに来た父親は、母の目の前で殺された。父の遺体は勝手に荼毘にふされ、母の身代わりとして処理された。つまり母は、その時点でこの世から抹殺されてしまったのだ。やがて研究と称して、あやしげな実験を施され、母は竜に変化した。そして本能のままに逃げたところ、この世界に来てしまったのらしい。だがこちらの世界でも捕らえられて鏡の中に封じ込まれた。それ以後、あちらの世界とこちらの世界をつなぐ魔法の鏡としてずっとここにいたのだと、母は涙ながらに語った。
『妃奈、逃げなさい。あの者達は自分の目的のためには手段を選びません』
そのカルトめいたグループの中には、妃奈や栞奈と同じように片翼の痣を持つものが数人いて、だけどその痣は、どれも白く色素が抜けたように斑紋としてあるらしい。
『その斑紋を持つ者達が主だったメンバーとなって、向こうの世界で同じ斑紋を持つ者を集めているらしいのです。恐らくあなたも狙われているはず……』
「その斑紋を持つ者達というのはどのくらいいるのだ?」
アレクが話に割って入る。
『こちらの方は?』
不安気げに問う栞奈に、あぁ、と妃奈が説明する。
「彼はこっちの世界のアレク。皇帝陛下なんだよ。で、こっちが銭塘君。彼は竜なの。二人とも私の味方。心配はいらないよ」
『皇帝……陛下? 竜? 味方?』
呆気にとられて、アレクと銭塘君を交互に見つめる栞奈の様子に、銭塘君は、すっげー適当な紹介だなぁと苦笑し、アレクは眉間を指で押さえつつ嘆息した。




