第三十七話 解除
妃奈は一瞬固まってから、一歩下がってぎこちなく会釈した。テオドシウス殿下は、無表情なままツカツカと部屋の中へ入ってくると、ソファにどっかりと腰を下ろした。武人風の短髪にアイスーグレーの瞳、頬には三日月型の痣。眉間には深い縦しわが刻まれている。
妃奈はそろりそろりとテオ殿下の前に歩み寄った。
いつもよりも不機嫌そうに見えるけれど、これは実際機嫌が悪いんだろうか、それともこれがデフォルトなんだろうか……。テオ殿下、怖いんだよね。もう少しにこやかにできないんだろうか。
テオ殿下が入ってきただけで、部屋の空気自体がピリピリして硬質になった。
だけど、良い機会だよね。テオ殿下ならアレクに何があったのか知っている筈だもの。
「テオ殿下、あの、アレクは……」
どこに行ったのかと訊こうとした妃奈の言葉は、不機嫌そうな声に遮られた。
「そなたはエル国の王だと聞く。そなたが統べておる国は如何なる国か? どれほどの民がいる? 何が盛んな国か?」
「……私は……」
突然の畳みかけるような質問に妃奈はたじろぐ。しかも、質問の内容が妃奈を困惑させるものばかりだ。何一つ、嘘なしには答えられない。
だって、私は王なんかじゃないもの。
嘘をつくことの心地悪さに、妃奈は思わず正直に本当のことを口にしてしまった。
「……テオ殿下、間違いなのです。私は王などでは……ないのです」
そう言った瞬間、テオの目が細くなり、眉間にしわが寄る。アイスグレーの瞳がごく僅かに赤みを帯びたようにも見える。
テオの怒気をはらんだ表情に妃奈は竦み上がった。
「ではそちは嘘を言ったという訳か?」
「い、いえっ、王エルと言ったのは、う、嘘ではなくてですね……」
かつて無いくらいテオ殿下が怖い。威圧感がハンパない。喉がカラカラになって、妃奈は汗を拭いながら口ごもる。
「そちは王エルなのか、王エルではないのかっ」
「わ、私の国では王エルと言う名の職業があるのですっ。それは王ではなくって、その、むしろ、女官のような職業で……」
怖いよう。
「なるほど、それで勝手に陛下が勘違いをしたとそう言っているのか」
そんな言い方したら、私がアレクまで騙していたみたいじゃない。
「いえ、私はそのようなことは……」
「では、陛下はご存じだったというわけか? 知っていて、王族でもないそちを双翠宮に滞在させていたと?」
それって……もしそうだと言えば、アレクに迷惑がかかるってこと? アレクの立場が悪くなる? テオ殿下は竜替えの前にシャルロ山を離れている。アレクが竜無しだなどというデマを、もしテオ殿下が信じているのだとしたら……。
黙り込んで考えを巡らせる妃奈に、テオが続ける。
「なるほど、陛下はそちの血を飲んでいた。記憶を知り得る能力を持つ陛下のことだ、当然、そちの身分を知っていた筈だな?」
危険な予感がした。肯定してはいけない。本能がそう言っていた。
「いいえっ、陛下はご存じないことです。陛下が血を飲むことで遡れる記憶はほんの数日と聞いております。私が……私が、皆さんが勘違いしていることをいいことに、自分に有利な身分を訂正しなかったのです」
テオ殿下の冷ややかな視線が突き刺さる。
「そちは誰に向かってしゃべっておるのだ。女官に過ぎぬおまえが、王族に向かって同じ目線で口をきくとは言い度胸だな」
テオの冷ややかな口調に、妃奈は慌てて跪いた。
「も、申し訳ありませんっ」
跪いて叩頭する妃奈の顎を、テオが掴んで上を向かせる。
「王族を騙し、身分を詐称した罪は重い。そちはそれを知っておるのか?」
死罪、なんてことは、あるんだろうか。体が勝手にがたがたと震える。アレクが、自分の立場を揺るがすなと言った意味が重くのしかかってくる。
「……存じませんでした。ですが……」
これ以上、身分を偽って嘘の上に嘘を重ねるのも苦しくて……。
真っ直ぐに射抜いてくるテオ殿下のアイスグレーの瞳がぼやけて見えた。同時に生温かい液体が目からこぼれ落ちて頬を伝う。
妃奈の涙を見たテオが僅かに動揺した気配がした。
「……では、血を差し出すが良い。それで今回は見逃してやろう。二度と自らの身分を揺るがすな。良いか」
そう言うや否や、テオは妃奈の首筋に牙をたてた。
首筋に走る痛みと眩暈。
体からかなりな量の血が抜けていくのを感じて、意識が朦朧としてくる。座ったままだったので、倒れることはなかったが体中から力が抜けて座っているのも辛いくらいだ。意識を失わないように、テオ殿下の背中にしがみついた。そして、よく回らなくなった頭でぼんやりと考える。
血を吸う時のテオ殿下は確か瞳が赤くなっていた筈だ。なのに今日は赤くなかった。それに、以前テオ殿下に血を吸われた時は、恐怖で凍りつきそうだったのに、今回は違う。怖くない。怖くなくて、むしろ……。
「……アレク?」
そう口にした途端、テオ殿下の背中がビクッと揺れた気がした。
徐々に薄れていく意識の中で、カチリと何かが外れる音がして、それは、妃奈を苛んでいた鎖が外れたのだと気づく。途端に、目の前の景色が爆発した。閃光に包まれたように真っ白になる。圧倒的な開放感と浮遊感。大空に放り出されたかのような……。
「ああああっ!」
縋るように宙を掻く妃奈の手を、温かくて大きな手がしっかりと掴んだ。




