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第三十五話 竜旗

 レムス国に一体何が起ころうとしているんだろう。私は、こんな場所で捕まっている場合じゃないんじゃないだろうか。しかも、ご飯なんか炊いてる場合じゃ……ないんではないだろうか。

 妃奈は首を傾げる。

 米を研ぎ、米全体が白濁するまで水に浸す。浸水させた米と同量の水加減で蓋付きの鍋に入れ炊く。沸騰して蓋から泡が零れてきたところから三分間ほどそのままの火加減で炊き、その後、火を少し落として三分ほど。更に弱火で五分ほど炊いてから蒸らしてみよう。芯が残っていれば、追加で炊けばいいでしょ。うーむ、我ながら素晴らしく適当だ。

 ってか、問題なのは薪での火加減の方でね……うわぁ、消えかけてるよう。ふぅーふぅー、げほっ、じーちゃん、やって……けほけほ。


 厨房の人たちには胡散臭い顔をされたけど、自分の国の料理を食べたくなったので器具を使わせてほしいと言ったら、渋々貸してくれた。

 だけど、火加減もさることながら、和食を作るには色々と足りない物だらけで……。

 特に調味料! しょう油も味噌も鰹節も昆布もない。おむすびには付き物の、海苔も当然のことながらない。

「塩むすびくらいしか作れないかもだよ?」

 そう言った私に、それでも慎也は瞳を輝かせた。


 アレクが消えてしばらくしてから、慎也はしょんぼりとした顔で妃奈の部屋に戻ってきた。鎖を解く鍵が見つからないのだという。

 あまりの落胆ぶりに、妃奈はなんだか自分が意地悪をしているような気分になってくる。

 厨房は一つ下の階にあるらしい。この鎖の長さでは到底たどり着けそうもない。

 でも待てよ? ベッドの足を持ち上げることができれば……。

 リューク伯はどうしているのかと訊いたら、なんだかすごく忙しそうにしていて、自室にこもったままネメア公国の人としきりに連絡を取り合っていると言う。

 これってチャンスじゃない?

 アレクは何もするなと言っていたけど、何かせずにはいられない。アレクの傍に行きたくて仕方がなかった。気持ちがざわざわして、じっとなんかしていられそうにない。大人しく待ってるなんて無理、無理無理。


 塩むすびに釣られた慎也にベッドの足を持ち上げてもらい、鎖付きながら自由の身になった。逃げられたら俺が叱られるからと慎也が鎖を持って付いてくるので、自分では重くて引きずって歩けない妃奈にしてみれば、願ったりかなったりだ。

 こうなると、問題は、慎也をどう説得して王宮に向かうかだけじゃない? 紫竜か銭塘君を呼べば、すぐにでも飛んで行けるだろうと思っていたけど、鎖付きのままではダメかもしれない。この鎖は竜には害があるらしいし……。しかも、私は高所恐怖症だ。さて、どうしたものか。

「おねーさん、足の出血ひどいよ? 止血布まき直す?」

「うわー」

 慎也の声にふと足下を見下ろすと、長時間立って作業していたせいか、前よりもひどく出血していた。

 既に蒸らしに入っていたので、厨房を出て、慎也に止血布をまき直してもらう。

「ねぇ、リューク伯ってどんな人? 向こうでは何をしてる人なのかなぁ」

 慎也は偽リューク伯のことをどれくらい知っているんだろう。偽者だってことも知ってるのかな。相当な悪っぽいから、もしかしたらその筋の人だったりするのかな。

「俺も詳しくは知らないけどな……」

 慎也は止血布を巻きながらポツリポツリと話す。リューク伯は、元々向こうの世界では手広く事業をしている人なのらしい。今でこそ羽振りは良さそうだが、かつて失敗したこともある苦労人なのだとか。

「でも、すごい悪い人なんでしょ? だって、私の父を殺したって……」

 そんなことするような人じゃないと思うけどなぁ、と慎也は首を傾げた。

「確かに、こっちの世界に居る時のおじさんは、ちょっと人が違ったように見える時があるかなぁ」

「ふぅん」

 妃奈は拍子抜けした気持ちになる。

 人が違って見えるというのは、本物のリューク伯のことなのかもしれない。どうやら偽リューク伯は、慎也に対しては、ひどいこともしていないようだし、ひどい仕事もさせていないようだ。じゃなきゃ、こんな風に自然に庇わないよね。

 考え込んでいる妃奈に、慎也が無邪気そうな顔で問いかけてきた。

「ねぇ、おねーさん、知ってる? この世界には梅干しの木があるんだぜ?」

「は? 梅の木じゃなくて、梅干の木?」

 本当の名前は違うかもしれないけど、どう見ても、匂いを嗅いでも、梅干しの木としか言いようがない実をつけている木があるのだと慎也は言う。その木は、葉っぱも梅酢に浸かった赤紫蘇の色をしており、実を実際に食べてみたが、やはり梅干しの味がするのだと言う。

 まさか! 冗談はやめてと笑いころげる妃奈に、むっとした慎也は、今から採ってくるとボウルを片手に厨房から出ていった。

 一人残された妃奈は、ふと気づく。

 あれ? 私、今、自由の身じゃない? いやいや、今一人でここを出ても何もできないよね。ここがどこかさえ分からないわけだし……。


 慎也はまもなく戻ってきた。小ぶりなボウルには、梅干し色に染まった赤い実がこんもりと盛られている。

「ほら、これ、どう見たって梅干しでしょ?」

 妃奈は呆然と突きだされたボウルの中身を見つめた。

 これは……梅干しですね。確かに。

 一つつまんで口に入れると、鮮烈な梅干しの酸味が口いっぱいに広がる。

 梅干し、梅干し~、正真正銘の梅干しだよ~。


 ほどよくふっくらと炊きあがったご飯に、梅干しの実を入れておむすびを作った。たくさんできたので、厨房の人たちにも配った。こっちの世界の人は、梅干しの実を薬として利用していたようで、最初は変な顔をして口にしていたけれど、割とイケると受け入れられたようだ。

 (偽)リューク伯にも持って行くと、皿におむすびを乗せていそいそと出て行った慎也を見送りながら、妃奈は小さくため息をつく。

 なんだかんだ言って、慎也は偽リュークに懐いている。やはり、彼を取り込むのは無理か。


 その時だった。偽リューク伯が足音も荒く厨房にやってきた。後ろにはおむすびの皿を持ったままの慎也が慌てた様子で付いてきている。

「この女は、どうしてこんな所にいるんだっ! 慎也、ちゃんと見張っていろと言っただろうがっ!!」

「いや、あの、ゴハン炊いてくれるって言うから、あの、その……」

 しどろもどろに答える慎也に、偽リューク伯は一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに、まぁいい、と言うと、取り巻きの臣下たちや厨房の人たちに向き直り声を張り上げた。

「レムス帝国の北塔に竜旗が上がった。皇帝が代わるぞ! 今すぐ王宮へ向かう。この女も連れていく。王宮へ向かう支度をしろっ」

 そう言い残すと、足音荒く立ち去った。

 皇帝が……代わる?

 慌ただしく動き始めた城の人たちの中で、妃奈は一人呆然と立ちつくした。

 

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