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第三十三話 束の間の…

「妃奈……」

 ドア口で息を弾ませて立っているアレクもまた、妃奈と同様、呆然としているように見えた。しかし、逆にこちらは困惑しているような、駆け寄ろうとして、でも躊躇しているような、そんな様子にも見える。

 案の定、次いでアレクは顔を歪ませた。

「……妃奈、そちはひどい怪我をしておるのか? 血の匂いが濃密すぎる」

 妃奈は戸惑いながら頷く。

「あ、でも怪我自体はひどくないんですよ? なのに、血が止まらなくって……。鎖で擦れているみたいなんです。そんなに臭います?」

 申し訳なさそうに妃奈がそう言うと、アレクは妃奈の足首に目をやり顔をしかめた。

「鎖で繋ぐなど、なんとひどいことを……。いや、先にひどいことをしたのは余であったな。シャルロ山でそちを一人にするのではなかった。ちょっとでも目を離してはならぬそちだったのに……」

 ちょっとでも目を離してはならぬって……いや、そんなことはないかと……。あ、もしかして湖に落ちたことを言ってます? 未だに?

 悔しげに唇を歪めるアレクに、妃奈は苦笑してから、静かに首を振った。

「いいえ、私こそ陛下の気持ちも推し量れずに勝手なことを言いました。私、まずは、立派な竜主になります。なれるように頑張ります。陛下に民として認めてもらえるように」

 妃奈がそう言うと、アレクは少し不思議そうな顔をして、首を傾げた。

「立派な竜主……か? 何をもって立派なと言うのか余には分からぬが、まぁ、ここは、頑張れと言えば……良いのか?」

 へ? あれ? アレクが怒っていたのはそのことじゃなかったの?

 妃奈がきょとんとした表情で首を傾げていると、アレクが困惑した表情で続ける。

「しかし、こんなにそちの血の匂いが濃密では、余は迂闊に近寄れぬな。忍耐力を試されている気分だ。そちを助けに来たのに、余がそちを襲ってしまっては洒落にならぬ。……だが、もう時間がない」

 苦渋の表情を浮かべつつ、アレクは一歩一歩用心深く妃奈に近寄った。

「妃奈、足をこちらに出せ。鎖を切る」

「あの……でも怪我をしているのは、繋がれている方の足なんですが……大丈夫?」

 妃奈がそう言うと、アレクはおもむろに妃奈に繋がっている鎖のもう一方の端を手にした。次いで、苛立たしそうに鎖を投げ出す。

「これはネメアの魔導具だ。異常に強力な魔法がかけられている。その程度の傷で、これほどまでに血の匂いが濃密なのはこれのせいだろう。切るのは危険だ。何が起こるかわからぬ」

 そ、そんな危険な鎖だったのか~。さっきは切れなくて良かったよ。

 ほっと胸をなで下ろす。

 さっき床に打ち付けていた時に、少しだけ鎖の継ぎ目が緩んだので、そこを集中的に叩いていたのだけれど、結局はずれなかったのだ。

 妃奈が胸をなで下ろしていると、突然強く抱きしめられた。頭上からアレクの悔しそうな声が聞こえてくる。

「妃奈、すまぬ。そちにはもう少し一人で頑張ってもらわねばならぬようだ。これからレムス国で色々なことが起こるだろう。その前に、そちを連れだして余の傍においておきたかったのだが……すまぬ」

「アレク?」

 色々起こるって、何が? 何が起きようとしているの? あ、やだ、私ってば大事なことをまだアレクに伝えてないじゃない!

「アレク、銭塘君から既に聞いているとは思うんだけど、偽物のリューク伯がアレクの命を……」 皆まで言わせずにアレクが遮る。

「偽物のリューク伯のことならば、承知している。そちは案ずるな」

「でもっ、彼は私が居た世界の人間で、あっちには危険な武器とか色々あるから、あんなやつだから、絶対用意してると思うし。あいつってば、すっごく嫌な奴でっ」

 いかに危険な人物なのかを勢い込んで説明する妃奈に、アレクは、抱きしめていた腕をほどいて両肩を掴むと瞳をのぞき込んだ。

「よいか? 何が起ころうと、何を聞こうと、そちは何もするな。いざとなれば、逃げよ。銭塘君でも紫竜でもよい、呼んで逃げよ。何処にいようとも、余は必ずそちを迎えにいく。だからそちは生き延びることだけを考えよ。よいな?」

「アレク? 何が起こるの? レムス国に何があったの?」

 もしかしたら、私はアレクばかりか、レムス国にまで凶運をもたらしているのではないだろうか。

 不安で胸騒ぎがする。

 しかしその問いには答えずに、アレクは妃奈の瞳をのぞき込んだ。まるで自分の言葉がちゃんと妃奈に届いたのか確認するかのように。その双眸に浮かぶ色は、微かに赤みがかったラピスラズリ。貝紫と群青を行ったり来たりしているようにも見えた。

「そろそろ限界だ。時間も余自身も……」

 苦しげにそう呟くと、アレクは両手で妃奈の顔を挟み、髪を掻き揚げながら口づけを落とした。 軽くついばむように、やがて噛みつくように深く激しく、まるで心ごとからめ取ろうとしているかのように舌をからませる。

「妃奈……妃奈……」

 苦しげに名を呼ぶその声に、熱い吐息に、妃奈がくらくらし始めた頃、不意にアレクの姿が掻き消えた。

「……アレク? アレク!」

 アレクが消えた宙を掻き抱きながら、妃奈は泣き崩れた。



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