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第三十二話 慎也

 明け方、妃奈は足の痛みで目を覚ました。

 鎖で繋がれた足首からの出血が止まらない。銭塘君(せんとうくん)が巻いてくれた白い止血布が真っ赤に染まって、元々白い布だったことなど分からないほどだ。

 濡れて固くなった結び目を苦労して解く。鎖の留め具はもう当たっていないというのに、傷はできたばかりのように血が固まる気配がない。流れ出るほどではないのだけれど、血はじわじわと傷口から地味に滲み出していた。

 何で止まらないんだろう。貧血気味だからかな。

 銭塘君が置いていった真新しい止血布に交換して、妃奈はため息をついた。

 少し白み始めた窓の外に目をやる。

 銭塘君はもうアレクの元に着いただろうか。アレクは無事だろうか。どうか無事でいて……。

 自分のせいでアレクが命を狙われるなんて最悪だ。やっぱり私は疫病神なんだ。偽リューク伯は凶運などないような言い方をしていたけれど、これを凶運と言わずしてなんと言うのよ。

 窓の外からは少し荒れた様子の波の音が聞こえてくる。規則正しく打ち寄せる波音は、地球の鼓動のようだ。

 そう考えると、まるで自分が母親の胎内にいるような心持ちになり、足首の痛みが少し和らいだ気がする。やがて、妃奈は再び深い眠りの底に落ちていった。


「うわー、なんだよこれ!」

 止血布を替えた後眠り込んでいた妃奈は、素っ頓狂な男の声で目を覚ました。

 声の主は、前に来た男(偽リューク伯) ではなく、妃奈よりもかなり年下にみえる少年だ。和風なしょう油顔に、短く切りそろえられた金髪、うち幾筋かはピンク色に染められている。耳には、いぶし銀の十字架や骸骨などのピアスがごてごてとくっついており、唇の端にも輪っか状のピアスがくっついていた。

 うわぁ、唇ピアス……。

 妃奈は内心どん引きするが、少年は屈託無く妃奈の足下にしゃがみこんだ。

 彼は、妃奈の足首からにじみ出している血に驚いたらしい。先ほど取り替えた時に、かなりきつく縛っておいたのだけど、既に止血布はしっとりと湿り、再び全体的に真っ赤に染まっていた。

「血が……止まらないのよ」

 少年は、持っていた食事のトレイを床におくと、妃奈の足首をしげしげと眺める。

「なにこれ。あんた血が止まりにくい人? 病気とか?」

 今まで血が止まりにくかったことなんかない。多少貧血気味だからそのせいかもしれないし、もしかしたら、鎖が当たる刺激で血が固まらないのかもしれないと妃奈は答える。

 最後の理由は、たった今思いついた。もしかしたら、鎖を外してもらえるかもしれないと思ったわけなんだけど……。

「俺、その鎖を外す鍵もってねーんだよな~」

 少年は心持申し訳なさそうな顔で言う。

「そうなんだ……」

 妃奈ががっかりすると、少年は気まずそうな顔をして、トレイを妃奈の前に置いた。

「まぁ、食えよ。貧血ならなおさら、食わねーとだろ?」

 少年は見かけこそ引いてしまう雰囲気だけど、偽リューク伯と違って、ひどいことをする様子はなさそうだし、普通に話せそうだ。

 妃奈は大人しく少年の言葉に従うことにする。

 少年が持ってきてくれたトレイには、スープとパンと、ヨーグルトデザートらしい物が乗っていた。

 温かいトマトベースのスープには魚介が惜しみなく使われており、とても滋味豊かな味がしたし、パンは焼きたてのように香ばしかった。ヨーグルトにはジャムと蜂蜜がかかっているようだ。スープを一匙一匙ゆっくり飲み込みながら、味を堪能する。

 海が近いせいかな、貝も魚もとても新鮮な味がする。朝食にしては豪勢だよね。

 王宮で出されていた料理に比べれば、品数こそ少ないが、味は勝るとも劣らない。このお城にも、腕の良い料理人がいるらしい。

「……美味しい」

 そう妃奈が呟くと、少年は肩をすくめた。

「そーかぁ? まぁ、確かにそのスープもうまいけどよ、俺、そろそろ日本に帰って白い米食いてーわ。コンビニのおにぎりとか、マジ食いて~」

 しょんぼりした顔で呟く少年に、妃奈は思わず吹き出した。

 確かに、こちらにもリゾットなどの米料理は無いわけではなかったが、こちらの世界で白いまま炊いたご飯を見たことがなかった。

「本当だ。白米のおにぎり食べたいかも~」

「だろっ?」

 ニッと笑うと、少年は見かけよりも一段と幼いように見えた。

 梅や鮭やたらこは定番だけれど、変わり種では辛子高菜やツナマヨも捨てがたい。少年は、いつもは鮭をよく食べるけれど、一度だけ食べたスパムが乗ったやつが忘れられないと言った。それに温かい日本茶か味噌汁があったら、俺、この先一週間は元気に過ごせそうな気がすると笑う。

 見かけよりもコワくない子なんだな。よく笑うし。

 つられて妃奈も笑う。

「あなたは、こっちの世界に来てもう長いの?」

 妃奈の問いに少年は、こっちの世界に来てかれこれ一年は経つと言った。慎也と名乗ったその少年は偽リューク伯に連れられて、向こうの世界から来たのらしい。

 慎也は自分の身の上をいろいろ語ってくれた。身寄りが無く施設で育ったこと。施設の経営難で高校を中退したこと。施設を出た後、住む場所がなく、バイトさえできなくなったこと。路上生活三日目で、ここのリューク伯に拾われたこと。

「髪を染めることを条件に、俺、拾ってもらったんだよ。へんな条件だろ? で、金もらって染めて、したら、こんなヘンテコな世界に連れてこられたってわけ」

 初めてこっちの世界に来たのは五年前。初めのうちはあっちとこっちを行ったり来たりしていたのだが、今回は帰れないことを覚悟しておけといわれたらしい。

「え~、でも帰りたいんでしょ?」

 まあね。と慎也は小さく呟いてから、

「でも、俺、向うに帰っても行くところがねーからさ。それに、俺、あの人には逆らえないんだよな。なんつっても、もうのたれ死にするしかないって諦めてた俺を拾ってくれた人だからな……」

 と言って力なく笑う。

「そうなんだ。じゃあ、こっちで白いご飯を炊けるようにしないと辛そうだね。でも、お鍋とかで炊けるんじゃないかなぁ。やってみた?」

 妃奈は気の毒そうに首を傾げる。

 ところが、妃奈がそう言った途端、慎也は目を輝かせて身を乗り出した。

「おねーさん、もしかして炊飯器無くてもご飯炊ける人?」

「え? そりゃ、まぁ、炊けるんじゃない? 普通のお鍋でも炊けるけど、土鍋とか圧力鍋とかあれば、そっちの方が美味しく炊けるんだけどねぇ」

「俺探す!」

 え? 何を? 土鍋を? 圧力鍋を?

「おねーさんの鎖の鍵っ! それで繋がってたら厨房まで行けないもんねっ」

 嬉々とした様子で慎也が部屋を出ていくと、すぐにドアが再度開いた。慎也が戻ってきたのかと思い、振り返って妃奈は瞠目した。

「ア……レク?」

 アレクがドア(ぐち)に現れた瞬間、まるで、突然暖かな日射しが差し込んだ気がして、妃奈は呆然と見上げる。アレクから発せられる、温かく柔らかく心地よいその気配に、妃奈はただただ呆然とアレクを見上げた。

 こんな危険な場所にアレクが居ちゃ行けないのに。なのに……。


 どうしよう、私……すごい嬉しい。嬉しくって泣きそうだ。


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