第三十話 竜と竜主
ガツガツ、ガシャンと硬質なもの同士をぶつける音が部屋中に響いている。先ほどから、妃奈は足に繋がれた鎖を大理石の床に何度も叩きつけていた。当然、床は傷んで傷だらけの粉だらけだが、知った事じゃない。こんなので繋いだ方が悪い。
一刻も早くここから脱出して、アレクに偽リューク伯のことを知らせなければ。仮に、既にここから逃亡したらしいリューク伯夫人が、アレクにここの窮状を知らせたとしても、妃奈がこんな状態で捉えられていては、足手まといになる可能性が高い。
もし、万が一、自分が人質になっているせいで、アレクの足手まといになるのならば、その時は、死さえ覚悟しなければならなくなるだろう。自分さえいなくなれば、強運の流れだのなんだのと訳の分からないことで、人を殺すことさえ躊躇わない狂人を止めることができるのだから。
そこまで考えて、ふと母の自殺の原因にたどり着いた気がした。今までは、父が死んだことを悲しんで後追い自殺を図ったのだろうと漠然と考えていた。夫婦仲は決して良くないようだったのに、と不思議だった。しかも母は決してそんな気弱な人では無かったのだ。むしろ凛然として、雪を割って咲く雪割草のような強い人だった。死んだものを悼んで追うことに意味はない。だけど、もし母が父を助けるために死を選んだのだとしたら……すんなりと納得がいく。
母の死が、絶望ゆえの死ではなく、希望の為の死だったのだとしたら……。
ゴトッ
ひときわ低い音がして、叩きつけた鎖が、とうとう大理石の一画を破壊した。妃奈は、少し震える手を伸ばし、床に散らばった欠片の中から、鋭利な角をもつ一片を拾い上げた。
この豊かな国から、アレクをとりあげてはいけない。民の笑顔を願う皇帝を、この国からとりあげてはいけない。
もし、私を追ってあのようなケダモノがこの世界に来てしまったのだとしたら……私はこの世界に居てはいけない人間なんじゃないだろうか。だからこそ、私を召喚し、あまつさえ擁護するアレクに、次から次へと災難が降りかかっているんじゃないだろうか。もしかしたら、私は、この世界から、異物として拒絶されているんじゃないだろうか。
薄闇が支配し始めた部屋の中、たどり着いた推論に、妃奈は一人呆然とする。
――私がこの世界にいることで、この世界の秩序が乱れているのだとしたら?
前例のない大嵐、壊された大鏡、引きずり出された銭塘君、コンラの負傷、リューク伯夫人の監禁、偽リューク伯の出現。すべてが、自分のせいで引き起こされたことなのだとしたら?
鋭利な角をもつ大理石の欠片を持つ手が、自然と動いた。その先端を自分の首筋に向け、反対側の先端を両手で握りしめる。両手で持っているにも関わらず、さほど重いわけでもないのに、欠片を持つ手がぶるぶると震えた。
――この一連の災難の大元に、自分がいるのだとしたら?
私は、存在していてはいけないんじゃないの?
妃奈は、いったん欠片を軽く首筋に触れさせると、腕を伸ばし可能な限り引いた。次いで、渾身の力を込めて首筋に突きたてた。
――母さん、父さん、お願い、アレクを守って! この世界を……守って! お願いよ。
ザシュという鈍い音がして、首筋をぬるりとした液体が流れ落ちていく。しかし、頸動脈をねらったはずの手元は、妃奈の腕を掴んだ力の強い小さな手に阻止されて、首の表面を掠っただけだった。
「あっぶね! 何やってるんだよ、妃奈」
傍らに目をやると、黒いゴスロリ風のミニドレスを纏った女の子が、目を見開いて立っていた。切れ長のブラックオパールの瞳は長いまつげに縁取られているにも関わらず、鋭い光を宿していて精悍だ。鼻筋のとおった顔立ち。軽くうねった柔らかそうな黒髪が、その陶器のような肌の白さを際だたせている。思わず見とれてしまうほどの美少女。姿を見る限りでは、初対面だと思うのだが、声に聞き覚えがあった。
ええと……この声は……。
「……あなた、誰……だっけ?」
首を傾げる妃奈に、女の子は満面の笑みを浮かべた。
「俺だよ俺、銭塘君だ」
ええええええ~?
妃奈がリューク伯の竜に乗せられて運ばれているところを目撃したアレクは、銭塘君に尾行を命じたのだそうだ。ここは王宮から百キロほど離れた半島にある夏の離宮で、季節はずれの離宮は人手不足だったらしく、銭塘君はすぐに下女として入り込めていたらしい。
「俺くらい偉大な竜になると、人型だろうが、獣型だろうが、自在に姿を変えることができるんだぜ」
銭塘君は得意げに説明した。
人型に変身して離宮の召使いの中に紛れ込み、情報を集めているところに、偽リューク伯が、妃奈の見張り役を命じたのだそうだ。同じ黒髪の女の子ならば、妃奈と打ち解けるのも早いだろうと言われたらしい。この世界では黒い髪は珍しい。目に留まるのも早かったようだと銭塘君は得意げに言った。
偽リューク伯は妃奈が自害せぬようにと、銭塘君に何度も注意したらしい。母に死なれて懲りているのだろう。
「それで、なんでおまえは自害なんかしようとしてるんだよ。偽リュークに注意されたときはアホかと思ったけど、部屋に入ってびっくりだ。もしかして偽リュークになんかされたのか?」
まだされてない。叩かれたぐらいでは死なない。
妃奈は首をふる。
「だったら、どうして……」
「アレクの足手まといになりたくなかったから……そうだ! 銭塘君、アレクに伝えてよ、偽リューク伯がアレクを狙ってるって。私のせいなの。私のせいでアレクに万が一のことがあったら私……この国の人にどうやって償えばいいか分からないよ」
すがりつく妃奈の背中を少女銭塘君が撫でる。
「ちょっと落ち着けよ。アレクは皇帝だ。やつが命を狙われることなど珍しい事じゃない。対策ならば幾重にもとっている筈だ。おまえが心配する事じゃない」
「でもっ、偽リュークはこの世界の人間じゃないんだよ? この世界にはない筈の武器とか持ってる筈だもの。いつもの対策じゃ、きっとダメだよ!」
「分かった分かったから、まず落ち付けって。アレクは一先ず王宮に戻り、一連の事件の真相究明に奔走している。偽リュークのことは承知済みだ。だから心配はいらない。一連の騒ぎが決着するまで、ここで大人しくしているよう伝えてくれとアレクに言われてる」
でも、でもっ……と、繰り返す妃奈の顔を少女銭塘君がのぞき込み、その白い指先で、叩かれて赤く腫れた妃奈の頬を撫でた。
「ひでーことしやがるなぁ。アレクは、偽リュークはおまえを害する気はない筈だ……なんて言っていたが……」
ちょっと待ってろ、と銭塘君は言うと、ドア付近に置いていた水差しを持ってきた。金属製の器に水を注ぐと、その中に懐から取り出した乾燥した葉を放り込んだ。注がれた水が徐々に白っぽく濁っていく。そこに布を浸して絞ると、妃奈の赤く腫れた頬に当てた。布はミントのような清涼な匂いがした。
「冷たくて気持ちがいい……」
そう言葉にした途端、涙が零れた。
痛かった、怖かった。
今になって、ようやく痛みや恐怖を感じる機能が回復したみたいで、ひどく泣けた。
しゃくりあげる妃奈の頭を銭塘君が撫でる。その小さな細い指が、妙に頼もしく感じられる。
次いで、銭塘君は鎖に繋がれた足首の手当に取りかかった。
「畜生! この鎖は俺には解けねぇ。アレクが来るのを待つしかなさそうだ。これは竜を捕まえるための特殊な呪を施した鎖だ。俺たち竜は、この鎖に触れるだけでも気分が悪くなる。おまえは大丈夫なのかよ」
足首に止血用の布を巻きながら銭塘君が問う。
私は人間だから、特に問題はないのだろう。重いし、擦れて痛いけど、特に苦痛はない。
妃奈がそう言うと、銭塘君はそうかと言って、でも、可哀相にと言いながら何度も妃奈の頭を撫でた。
手当を済ませた後、銭塘君が運んできてくれたスープとパンでお腹が満たされると、にわかにアレクのことが心配でたまらなくなってきた。
「ねぇ、銭塘君、やっぱりアレクのことが心配だよ。だから銭塘君はアレクのところに行ってよ。私はここで大人しくしているから」
銭塘君はアレクの竜なのだ。自分の竜が傍にいないのは良くないことなんじゃないだろうか。こちらの世界のことはよく分からないけれど、そんな気がして、落ち着かない。
「……おまえは、本当にやつのことが好きなんだな」
少し悄然とした様子で呟く銭塘君に、妃奈は首を傾げる。
「銭塘君は竜主の元にいなくても不安じゃないの?」
アレクは、竜と竜主の絆を、命と命を結ぶことなのだと言っていた。だとしたら、竜は竜主の傍にいないと不安なんじゃないの?
「竜は竜主の傍に居たいものだ。だから、まぁ、仕方がないよな」と銭塘君はぽつりと呟く。
「だから、銭塘君はアレクの傍にいてよ」
そう言う妃奈に銭塘君は小さく笑って、その小さな白い両手で妃奈の頬を挟むと、自らの額を妃奈の額にくっつけた。銭塘君の柔らかな髪が妃奈の頬に当たってくすぐったい。
一瞬辛そうに顔を歪めた銭塘君の唇がごく軽く妃奈の唇に触れて、妃奈は目を見開く。
「銭塘君?」
困惑する妃奈を放して、銭塘君は頷いた。
「分かった。おまえが望むとおりにしよう。だが、何かあったら俺の名を呼べ。もし呼んでも俺が来ない場合は、紫竜を呼べ。呼び方は知っているんだろう?」
「え? あの……でも、紫竜は王宮に居るんだよね? こんなに離れていては、声は届かないんじゃない?」
妃奈がそう言うと、銭塘君は困った奴だと言わんばかりに苦笑した。
「なんだ、知らないのか。おまえ、本当にこの世界のことを何も知らないんだなぁ。いいか? 俺たち竜はあらゆる道を使う。空にあっては気脈を、水にあっては水脈を、必要ならば地脈さえ使うことができる。竜主が呼べば、この世界にいる限り、あらゆる脈を伝って、竜はおまえの元に現れるだろう。必要なのは強く念じること、それだけだ」
黒竜の姿に戻った銭塘君は、少し切なげな鳴き声を残すと、星が瞬き始めた闇夜に溶けるように飛び去った。




