第三話 双翠宮
双翠宮は、王宮最奥の更に奥にあった。双翠宮に続く回廊を歩きながら、妃奈は居心地の悪い思いで辺りを見回す。
双翠宮とは、王族の住居なのらしい。王族以外は、特別に許された者しか、中に入れないのだそうだ。それでなくても煌びやかな王宮の中にあって、殊更に荘厳感漂う双翠宮の佇まいに、妃奈は内心ヒヤリとする。
やっばり、これ、なんか誤解があるよね?
「あの~、リュシオン? ここって……」
リュシオンの背を追いながら、戸惑い気味に話しかけると、困惑したような顔が振り返った。そして小さくため息をつく。
「妃奈様、これまでの無礼の数々、どうかお許しください。しかし妃奈様もお人が悪い。そのようなご身分の方だと、どうしてすぐにおっしゃってくださらなかったのですか」
ちょっと待て。どのような身分の方だと思ってるの? なんかひどい誤解があるよね、それ。その誤解は、どっから発生したわけ? 自己紹介した時? だとしたら……。
「あの、私はそんな……」
そんな高い身分の者ではないと、誤解を解く為に発した妃奈の言葉は、一人の女官によって遮られた。
「リュシオン様、皇帝陛下がお呼びです。すぐにお部屋へ来るようにと」
失礼を、と言いおいて、足早に立ち去るリュシオンの背中を、妃奈は呆然と見送る。
あーあ、誤解したまま行っちゃったよ~。
双翠宮に来て何が一番変わったかというと、部屋係の侍女が割と気楽に話をしてくれるということだった。これは非常にありがたい。妃奈のことをOL様と呼ぶのには戸惑ったが、名前で呼んでほしいと頼んだら、きちんとそう呼んでくれるようになった。
「と言うことは、妃奈様は、この世界の人ではないと……そうおっしゃるのですか?」
橙色の髪に明るい茶色の瞳を持つ、この美しく快活な侍女は、リンという名だ。彼女に言えば、大抵の身の回りのことは手配してもらえた。しかも、リュシオンよか数倍気が利いてる。なんと言っても、リンは、この世界の様々なことを話してくれるので、大変助かっている。
「私もよく分からないんだけど、そうだとしか思えないんだよね……」
言葉に不自由しないことが不思議なくらいだ。それほど、この国は、日本とは異なっていた。否、異なり過ぎていた。一体、世界のどこに、こんなカラフルな外見を持つ人だの動物だのが存在するというのか。
リンの言葉に相槌を打ちながら、香ばしく焼きあげられた米菓、つまり、お煎餅のようなものを齧り、リンが淹れてくれた爽やかなハーブティーを啜る。ハーブティは淡い菫色をしており、飲んだ後に清涼感があった。
ほんと、ここの食べ物は、どれもこれも絶品だよね~。
「でも、それ、信じられる気がします。妃奈様のような髪と瞳の色をもつ人々の国が、遙か遠く、世界の果ての外つ国にあると噂で聞いたことがございますよ」
世界の果ての外つ国……ですか。
「その国では、誰もが魔力を操ることが巧みで、他の動物の力などを借りることなく、高速で移動したり空を飛んだり、行ったこともない遠くの国に居る人と会話ができたりするのだとか」
それって……魔力を電力とかに置き換えれば、確かにできてるよ。
妃奈は苦笑しながら頷く。
なるほど、ここでは、電力がなく、代わりに魔力が存在するらしい。まだお目に掛かったことがないけど。しかも移動には、他の動物の力を借りるのが一般的なようだ。城の前庭に集まっていた兵士たちの乗騎を思い出す。異形の動物達。
あれに乗ることを考えると、ちょっとワクワクするよね。バッタみたいなのって、どんな乗り心地なんだろうか。飛ぶのか、跳ぶのか。
「……これは、妃奈様に言って良いものかどうか分からないのですが……」
ふいにリンが表情を曇らせて口ごもった。
「私は、この世界のことがさっぱり分からないの。だから色んなことを知っておきたいのよ。何を聞かされても、私は構わないから、差し支えない範囲で教えてくれない?」
「そうですね。妃奈様は、知っておいた方が良いことなのだとは思います。でも、あの、気を悪くされないでくださいませね。ここレムスの国では、黒いものには、強くて邪悪な魔力が宿ると信じられているのです。迷信のようなものなのですが……。ですから、黒い髪と黒い瞳をもつ妃奈様を、必要以上に怖がってしまう者が、この王宮内にも少なからずおります。とはいえ、黒い体躯を持つものでも、魔力とは無関係の生き物など、たくさんいるのですけどね」
あぁ、それでか……。話しかけても最低限の会話しかしてくれなかった王宮の人たち。彼らは、私のことを怖がっていたんだ。
「逆に、黒いものが帝国の窮地を救うという言い伝えもあるので、実際のところ、どちらが真実なのか、定かではないのですけどね」
リンは、そう言うと肩をすくめて笑った。
□■□
妃奈は、薄暗くて狭い場所でうずくまり、身を潜めていた。視線の先には、背面にある鈴ちゃんのデスクが見える。どうやら自分のデスクの下にいるらしい。オフィスには誰もいないようなのに、誰かが声を潜めて話している声が聞こえた。
「今日は残業で残してあるんじゃなかったのか?」
「はぁ、そのように言ってあったのですが……。お手洗いですかね」
あの声は、あれは……誰だったっか……。
一人は妃奈の直属の上司である課長の声で、もう一人は、確かどこかで聞いたことがある声だった。
どこかで、どこかで……。
胸の奥で警鐘が鳴り響いて、妃奈は跳ね起きた。
開け放たれた窓から、心地よい夜風が入ってくる。うたた寝をしていたらしい。
汗ばんだこめかみに貼りつく髪を、無造作に掻きあげる。激しい運動をしたわけでもないのに、今しがた見ていた夢のせいで、息が上がっていた。
もしかして、私、こっちに来る直前、何かトラブルに巻き込まれてたんじゃなかった?
――いいか。妃奈、少しでも危険だと思えば、身を隠せ。儂のことは気にするな。
祖父の真剣な顔が脳裏をよぎる。
今では、小さな会社で普通のOLをしている妃奈だが、実は辛い過去を背負っている。
妃奈が大学二年の秋、多額の借金を背負わされて、妃奈の父親は会社を潰した。そのせいで、父親の元には、柄の悪い連中がしょっちゅう取り立てに来ていたのだが、ほどなくして、父は事故死した。しかし、本当に事故だったのかどうか……。
父に掛けられていた多額の保険金は、妃奈も祖父も、聞いたことのない会社が受取人になっていた。また、倒産直後から行方不明だった母親は、とあるマンションの一室で、死体で見つかった。自殺だった。マンションは架空の人物名義になっており、持主は不明。両親に、一体、何が起こったのか、結局、真相は何も分からずじまいだった。
父親の会社の資金繰りが厳しくなり始めた頃から、既に母方の祖父の家に一人身を寄せていた妃奈は、それら一連の事件だの事故だのを、祖父の家で聴いた。
何もかもが、悪夢のようだった。
あれから五年。大学を中退し、祖父の営んでいる寺で身を潜めるように二年間過ごしたのち、都内に出て、小さな会社に就職した。姓も、祖父が懇意にしている檀家の養子にしてもらい、変えた。仮にあの時の取り立て屋たちが、未だに妃奈を探していたとしても、気づかれることはないはずだし、それに、借金の件は片を付けたと祖父は言っていたはずなのだ。
だとしたら、それ意外の理由で妃奈を探している人がいるのだとしたら……。
とそこまで考えて、しかし、ふと眉間のしわを解いた。
だけど、いくらなんでも、こんな不思議な世界までは追いかけてこないよね。
そう考えると、少し気楽な気分になって、安堵のため息をついた。
双翠宮に与えられた一室は、庭に面していた。バックヤードというのだろうか。それは、前に居た部屋から見えていた中庭でも、ファサードに面した前庭でもない、少し砕けた雰囲気の庭だった。窓を開ければ、レンガ貼りのテラスから、その手入れの行き届いた庭に直接出られるようになっている。
庭の片隅に置かれたガゼボの支柱には薄紅色の薔薇が絡みつき、今を盛りと咲き零れており、木々が生い茂る木陰は、そこでランチをとりたくなるくらい気持ちが良い。でも、何よりも驚愕したのは、この庭の先が断崖絶壁になっているということだった。
つまり、この城は、ケーキのモンブランのような台地の上に建っているのだ。庭の端まで歩いて、それに気づいたときは、息を呑んだ。前庭と同様、崖の下、遙か下方に、城下町のオレンジ色の屋根が広がっているのが見えた。この城と街を行き来するには、かなり健脚である必要がありそうだ。あるいは、急峻な山を登れる乗騎を所有する必要が。あの異形の乗騎たちは、山登り用なのかもしれない。
窓際に置かれた豪奢なソファの上で、いつのまにかウトウトしていた妃奈は、物憂げに身を起こした。何故だか分からないのだけれど、こちらの世界に来てからずっと、眠くて仕方がない。ちょっと横になろうものなら、墜落するように眠り込んでしまう。
窓の外には、既に暮れ始めた薄青い空に、月が白く浮かんでいた。
――コツコツ ゴツゴツ
先ほどから、何か奇妙なくぐもった音が響いていて、自分がそのせいで目覚めたのだということにゆるゆると気づく。ドアをノックする音のようだが、少し違う。木よりももっと硬質なものを叩く音。
そろりとソファから下りて、音がする方へ進む。途端に、大理石でできている床の一部がごそりと持ち上がった。驚いて二、三歩後ずさると、持ち上げられた床から、頭巾を被った男がしかめっ面で現れた。
「随分遠い部屋に案内されたものだな。そちを、ここに通したのはリュシオンか?」
妃奈が呆気にとられていると、男は軽やかな身のこなしで部屋に上がり込んできた。
「あ、ああああ、あなた誰ですか?」
「しっ、騒ぐな。衛兵に気づかれる」
いやいやいや、気づかれないとまずいんじゃないですか?
じりじりと後退を続ける妃奈に、男は、おや? という表情で問いかける。
「もしや、余のことを覚えていないのか?」
え? 余のことを覚えていない? 余? 自分のことを余と呼ぶ人……皇帝? まさかだよね。
皇帝というものは、床下から登場しない、これ常識。しかも、私は皇帝の顔を見たことがない。タペストリー越しの声しか聞いていない。よって、覚えていないのかと問う彼は、皇帝ではない。以上、証明終わり。
「あの……失礼ですが、どちら様でしたっけ?」
「なんだ、本当に覚えておらぬのか」
その人は、少し安堵したような、それでいて少し不満気な、複雑な顔をした後、眉目秀麗な顔で笑んだ。そのひどく麗しい笑顔に思わず見とれる。
あ……れ? この王子様系の顔、私、どこかで……。
「余はアレクシオスと言う。以後、アレクと……」
片膝をつき、妃奈の手を取ると、そっと甲に唇を押しあてた。
慣れぬ所作に妃奈があわあわと固まっていると、そのまま掴んだ手を引っ張られた。手を取られたままアレクのあとをついて歩く。
「あ、あの、どこへ行くんですか?」
「外を見てみたかったのだろう? リュシオンには、そう言っていたではないか」
え? あ、皇帝に呼ばれた時の……。と言うことは、あの場に居た衛兵なんだろうか。
「もしかして、昼間、皇帝の部屋に居た人ですか?」
「無論、あの部屋に居たぞ」
何が面白いのか、アレクはくつくつと笑う。
そう言えば、あの部屋に居たのは衛兵だけじゃなかったなと思い出す。偉そうな人たちがずらりと居並んでいたし、官吏のような人たちもいた。アレクは、あの中の一人にちがいない。
妃奈は一人納得して頷いた。
「あ、でも、どうやって外に……」
出るのかという問いは、訊くまでもなくあっさりと判明した
やって来たのと同じように床下へいざなうアレクに、妃奈は慌てる。
「そ、そんな所から出てもいいの?」
「いいも悪いも、外の見張りを誤魔化すには、これしかないだろう。どうした? もう外を見てみたくなくなったのか?」
見てみたいっ。この不思議な世界を自由に歩き回ってみたい。切実にそう思う。
妃奈は首を横に振った。
ならば、と力強く差し出すアレクの手を、妃奈はしっかり握りしめた。