第二十五話 竜替え
誰かに呼ばれたような気がして、妃奈は目を覚ました。
窓の外はまだ暗く、傍らには何故かアレクが眠っている。暗がりの中に、金色の髪が幽かな光を弾いていた。
あれ? 昨夜、温泉から帰って……どうしたんだっけ?
眠りにつくまでの行動を何一つ思い出せない。
アレクの寝袋は、部屋の反対側に敷いたはずなんだけど。
アレクはフローリングに直に寝ているようだ。
まさか、ここまで転がってきたんだろうか。それはいくらなんでも、寝相が悪すぎだろう。
妃奈は首を傾げながら起きあがると、アレクに自分が着ていた寝具をそっと被せた。
手早く髪をまとめて外にでる。
薄墨色の夜空には、未だ月が君臨している。夜明けは、もう少し先のようだ。妃奈はゆっくりと湖畔まで歩いた。空気は冷え切り澄みわたっており、あちらこちらで雪が吹き溜まっていた。しかし、相変わらず湖の周りは不思議なくらい雪がない。鏡のように凪いだ湖面には白っぽい月が映っていた。
妃奈はこわごわと湖をのぞき込む。昨日、荒ぶる紅竜を呑み込んだ湖は、何事もなかったように静けさの中に横たわる。
冷たい水に手を浸し、顔にバシャバシャ掛けた。
心は眼前の湖面のように凪いで澄みわたっていた。
危機は去ったんだ。
さすがの痣も、異世界だったからか、相手が皇帝だったからか、その災いの威力は及ばなかったらしい。もうこれで大丈夫に違いない。
考えてみれば、これほどの困難を乗り切ったのは初めてじゃないだろうか。そして、初めてだからこそ、次に何が来るのか……自分でも分からない。禍福は糾える縄の如し。そんな諺がふと脳裏に浮かぶ。
再び、新たな大幸運と不運を繰り返すことになるのか、それとも、一度乗り切ってしまえば、残りは穏やかな人生を過ごせるんだろうか。もしそうだとしたら、それはこの世界限定だったりする? 元の世界に戻ったら振り出しに戻るとかになるんだろうか。
ここ最近、あの夢を見なくなった。こちらの世界に来る間際に、妃奈が遭遇したらしい出来事の、あの夢だ。
私は最後に誰に会っていた? アレクは、私の過去をどこまで知っているんだろうか。
だけど、すべては遠い昔の出来事のようで、さほど気にならなくなっていた。
まぁ、だからこそ夢に見なくなったんだろうけど……ね。
もしこのまま元の世界に戻れなくなっても、もう、それはそれでいいか、と思うようになってきていた。祖父は、とにかく妃奈に逃げろと言ったのだ。妃奈を捜し出そうとしている人物から。少なくとも、今は逃げおおせている。何年か経って、ほとぼりが冷めた頃に、向こうの世界に戻れたら、それがベストなのかもしれない。
だとしたら、妃奈が今行うべきことは一つ。この世界に、自らの生活基盤を築くこと。
王宮に戻ったら、アレクにレムス国の国民にしてもらえるようにお願いしよう。そして、暇をいただこう。王宮を出て、城下町のどこかで働くのもいいかもしれない。一人で暮らしていれば、痣の影響に怯えることなく過ごせる。
アレクには、もうこれ以上迷惑を掛けられないもんね。
皇帝アレクシオス陛下。
今まで妃奈が出会った人の中で、一番強くて、優しくて、大きな人。
初めてだったのがアレクで良かった。それがたとえ、アレクにとっての補充作業だったのだとしても……。
…………いや。
いやいやいやいや、やっぱ、良くないよ。良くない。それじゃ、いくらなんでも私が可哀想だ。
そうだ! あれは聞かなかったことにしようそうしよう。
妃奈は、湖に向かって一人うんうんと頷く。
そのとき、突然、背後から声を掛けられた。
「どうした? 何を一人頷いておるのだ?」
驚いて一センチほど飛び上がってから振り向くと、身支度を済ませたアレクが立っていた。
「アレクっ……じゃなくって、陛下、おはようございます」
かしこまって挨拶をすると、アレクは怪訝そうに首を傾げる。
「ずいぶん早いな。疲れはとれたか?」
「は、はいっ。陛下が温泉に連れて行ってくださったお陰でお元気になりました、でございます」
人間、頼みごとをする前というものは、ついつい下手になってしまうものだ。敬語だってヘンテコになるものだ……ってか、なる場合もあるっ。
そんな妃奈をアレクは更に訝しげに見つめた。
「妃奈、そちは何か様子が変ではないか?」
強い視線に、妃奈は思わず怯む。
「い、いえ、そんなことは……」
えっと、どうしよう。まだ心の準備ができてないし……。でもな、これは言い出すチャンス? チャンスなのか?
しかし、妃奈が言葉にする前に、アレクが遮った。
「まぁ、よい。もうすぐ儀式の時間だ。事情は後でじっくり聞かせてもらおう」
「竜替えの儀式って、早朝に行うんですか?」
「まぁ、大抵はそうだな。朝日が昇ると同時に行う」
「へぇぇ。あれ? でも私の場合、紫竜は……」
妃奈が首を傾げると、そちの場合は例外のてんこ盛りだとアレクがため息をつく。
そんなやりとりをしていると、テオ殿下がやってきた。
「アレク、では俺は一足先に行くぞ?」
「あぁ、頼んだ」
なにやら二人で目配せしながら、テオ殿下は緑竜に乗って飛び立っていった。
テオ殿下、まだ居たのか。そして、もう行くのか。まぁ、私としてはその方が、気が楽でいいけどね。テオ殿下怖いし……。
「テオ殿下、ずいぶん早くお出かけなんですね」
「あぁ」
アレクはテオ殿下の緑竜が小さくなっていくのを目で追いながら返事をする。
そう言えば、ほかの人たちはいつの間にか居なくなっていたんだった。王族の人たちというのは、存外忙しいらしい。
「では、余も行ってくる。そちはうろちょろせずに、小屋にいるか、もしくは余の傍におるが良い。また一人で湖に落ちられては困る」
そんなに何度も落ちませんよ。
ちょっとムッとしたが、ここはおとなしく従っておいた方がいいだろうと、アレクの後を追った。
アレクが向かったのは、湖の畔にある、桟橋のように少し出っ張った場所で、そこだけ、柔らかな、さみどり色の苔のような短い植物で覆われていた。触ったらきっと、ベルベットのようなさわり心地に違いない。
ちょっと不思議な場所だ。
その場所にすっくと立ったアレクに、妃奈は思わず見とれる。風にそよぐ金色の髪、精悍な横顔。剣を佩き、貝紫色のマントをまとっている姿は、まるでおとぎ話に出てくる王子様みたいだ。
あ、みたい、じゃなくて、まさに皇帝か……。
湖面にさっと金色の光が閃いて、まさに山の稜線から陽光が射したその刹那、アレクは呪文を唱えると片膝をついて黙祷した。
まぶしい光に包まれたアレクを見た妃奈は、その瞬間、何か神々しいものが自分の中に流れ込んできたような気がして、思わずその場に両膝をついた。
息をするのも忘れて、アレクの姿に魅入る。くらくらと目眩がした。
何これ? 立ちくらみ?
どれくらい時間が過ぎただろうか。アレクが愕然とした表情で立ち上がり、湖面を凝視しているのを見て、妃奈は思わず駆け寄った。
「アレク!」
振り向くアレクの悲痛な表情に、胸が締め付けられる。
「……竜が、現れぬ」
「そんな……どうして……」
呻くようなアレクの声に、妃奈は泣きたくなる。
その時にわかに、風もないのに湖面が波立ち、渦を巻き始めた。
「妃奈、下がっておれ」
アレクの背中越しに見た湖の中央から、何か黒っぽいものが浮上してきたのが見えた。それが浮上したと同時に湖面は凪ぎ始め、再び鏡面のように静まった湖を、その黒いものは、ちゃぱちゃぱと可愛らしい水音をたてながら泳いできた。
大きさで言うなら中型犬。その黒っぽいものは、サイズこそ小さかったが、竜の姿をしていた。べちっべちっと水音をたてて前足を岸について上ってきたそれは、濡れた犬のようにぶるぶるっと水を弾き飛ばした。
そして呆気にとられている、アレクと妃奈の前に歩み寄ると、なんと、口を開いた。
「よう」
よう? ようって……。
妃奈はアレクに視線を投げる。アレクも呆然とした様子で妃奈を見つめた。




