第二十四話 予兆
風が吹いていた。
山の天候は変わりやすい。背の高い樹木は数えるほどしかなく、遮るものがほとんどない山頂の丸太小屋に、小雪混じりの強い風が吹き付ける。壁面に当たるそのザラリとした音と風鳴りが、室内に居てもうるさいくらいに聞こえていた。
「明日の朝にはやむといいな……」
ロフトに自らの寝床を整えて下りてきたテオが、暖炉の前に座っているアレクに声を掛けた。
アレクは断ったのだが、テオはどうでも明日の竜替えの儀式までは付き合うつもりらしい。
「夜半にはやむだろう。雲が勢いよく流れている」
アレクはテオを見上げて穏やかに笑った。
部屋の奥では、妃奈が既にぐっすり眠り込んでいる。
今日は色々なことがありすぎた。日頃から体を鍛えているアレクでさえ疲労困憊なのだ。しかも、更に妃奈は精神的にも追いつめられた筈だから、心身ともに疲労はピークに達していたことだろう。丸太小屋に帰り着くまで気丈に振る舞っていた妃奈に、ごく軽い催眠魔法を掛けてやると、気絶するように眠りに墜ちた。
「どうするつもりなんだ? あれ」
テオが顎で妃奈を指す。
「元の世界に帰すさ」
「元の……世界? まさかこいつ……」
テオが瞠目する。
「そう、俺も妃奈は、ロムルスの世界から来たんじゃないかと思ってる」
久々にテオと二人きりのせいか、昔通りの俺という呼び方に自然と変わっていた。
「……内向竜門鏡はなんと? あ、既に壊されていたのだったか」
「昨夜、妃奈を伴わずに行ったときには、彼女がどこから来たのか分からないと言っていた。本人を鏡に直接見せれば、もしかしたら何か分かるかと思ったのだが……」
内向竜門鏡は破壊され、中に閉じこめられていた赤竜はあの通りだ。あれでは、もう内向竜紋鏡の復活は見込めないだろう。芯が損なわれずに残っていることが、魔導具の復活には欠かせないのだとコンラは言っていた。
「しかし、あの赤竜が、内向竜門鏡の中身だったとはな。ずいぶん嫌味な性格をしていたから、どんな魔物が潜んでいるのかと、子どもの頃から気になっていたが……」
アレクは肩をすくめる。
内向竜門鏡に凶悪な魔物を封じたのは、始皇帝レムスだと言われている。
「内向竜門鏡にすらその軌跡を追えない召還物を、元の世界に戻せるものなのか?」
テオが苦笑混じりに問う。
「……どうだろうな。分からない」
「アレク、本当は、その娘を元の世界に戻したくないんじゃないのか?」
「……どうしてそう思う?」
アレクは、手慰みに暖炉の中の薪を火箸で整える。
「あんなになりふり構わず俺を牽制するアレクを初めて見た。それも、二十五年間もの長期にわたって、秘密にしていたことを、惜しげもなく暴露してまで……。こんなの、およそアレクらしくない。そこで俺が考えついた理由は二つだ。一つは、その娘が余程大事。もう一つは、今回の事件が思ったよりも深刻。で? どっちなんだ?」
どっちもだ、とアレクは言って大きなため息をついた。
「テオ、今、北の砦は誰が指揮をしている?」
テオが北の国境から離れている今、北の守りは万全ではないと思った方が良い。誰が指揮をしているのか、それを知っておくことは、重要なことだ。
アレクは暖炉の火に新たに薪をくべながら問う。
「イルミナートだ」
「そうか、イルミナートか。やつは良い。目端がきくし、行動力もある。乗騎も天馬だから足も速い。しかし、なによりも、イルミナートは、あの燃えるような赤い髪がよいな。凍える北の大地では、あの色を見るだけで士気が上がる」
そう言って、アレクは暖炉の炎を見つめたまま小さく笑う。
「アレク……十年前と同じ顔をしている」
テオの言葉にアレクは振り向いて、無言のまましばしテオを見つめた。
「……テオ、明日の朝、レルモアへ飛んでくれぬか? レルモアのリューク伯の所領へ」
「何があった?」
リューク叔父は、そもそも西方の国、シノン国王族の血筋だ。レムス国第二十三代皇帝、つまりアレクの父親の妹だったガウラ叔母と恋に落ち、訳あって、結局シノンの王族から離籍した。大らかで明朗快活な性質で、レムス南方に与えられた領地を善く治めた。そして何よりも、アレクが気持ち悪くならずに血を飲むことができた、数少ない人間のうちの一人でもあった。
それが……。
かなりの量の血も魔力も失っているからと、レピオス医師に無理矢理飲まされたリューク伯の血に、アレクは驚愕した。
これは誰だ?
「リューク叔父が別人だったと言うのか?」
テオが驚愕の色を浮かべて問う。
「あれは別人だ。あの血の味の違いは、そうとしか言いようがない」
「しかし、あれほどまで顔がそっくりの別人がいるものだろうか? そういえば、リューク叔父やセレン妃はどこに行ったのだ? レピオス先生は?」
「三人とも王宮だ」
今頃気づいたのかと笑いながら、アレクは答える。
「王宮? 大丈夫なのか?」
リューク叔父の素性に疑問を持ったアレクは、レピオス医師に命じて、セレン妃の血も採取させた。もちろん、情報を得るためだったのだが、セレン妃の血は、相変わらずアレクを滅入らせる。鉱物油を飲んでいるような心持ちになるからだ。
「そして、カマを掛けてみたのだ」
ここにくる途中、セレン妃が飼っている鳥を見かけたので、捕獲して王宮で保護していると。
「そうなのか?」
「カマを掛けたと言っただろう? もちろん、そんな鳥、見かけもしなかった。しかし、二人の慌てようといったら……」
確かに、セレンは二日前、その鳥の足に文をつけて飛ばしているのだ。それは彼女の血を飲めばすぐに分かった。しかし、文の内容までは分からない。だからカマを掛けた。
セレン妃は、北のネメア公国の第三皇女だ。連絡をとるとしたら、鳥の行く先は恐らくネメアだろう。
「セレン妃が何のために、鳥など使ってこそこそとネメアと連絡をとる必要がある?」
「あれはリューク伯が偽者であることを知っているのではないかと思うのだ。もしかしたら利用されているだけなのかもしれぬが……」
慌てる二人に、王宮まで逆召喚することを持ちかけた。
「奴らは俺に縋りつかんばかりに喜んだ。とても可愛がっている鳥なんだとか力説していたな。その滑稽なことと言ったら、おまえにも見せたかったぞ」
「で?」
「リュークとセレンを遠回りで逆召喚した。そして、レピオス医師を最短で逆召喚した。今頃、リュシオンが鳥かごに詰めた偽物の鳥をちらつかせながらねちねちと二人を尋問している頃だろう」
アレクの留守中、表向きは第二王妃であるアデルが王宮を取り仕切る体制をとっているが、実際の采配はリュシオンに任せてある。理路整然と矛盾点を突くのが得意なリュシオンにかかれば、とりわけ論理的な会話が苦手なセレンなど、すぐに口を割ることになるだろう。
「ひとまず、そっちはリュシオンに任せるとして、本物のリューク伯とガウラ叔母の安否が心配だ。行ってくれるか?」
「分かった。そういうことなら、明日、一番で向かおう」
「水色竜も伴うがよい。あれは元々、ガウラ叔母の竜の筈だ」
「残しておかなくて大丈夫か?」
「明日の竜替えで、どれほど無能な竜が現れたとしても、妃奈の紫竜がいるから、なんとかなるだろう」
ここ数年、アレクの元に力の強い竜は現れていない。それどころか逆に、竜の色が年々薄くなる一方だ。
「今年こそは大丈夫だ。俺はそう信じている」
力説するテオに、どうだかな、と笑った後、アレクは真剣な顔をしてテオを見つめた。
「テオ、もし俺に何かあった時は、後を頼む」
テオは、アレクの表情に一瞬顔をしかめてから、小さく笑う。
「何を言ってるんだ。ネメアの件を片づければ、すべてうまくいくようになるさ」
ランプの灯が揺らめく中で、アレクは妃奈の寝顔をのぞき込んだ。
なめらかな黒絹の髪、きめの細かい白い肌。長い睫毛に縁取られた黒曜石の瞳は、今は閉じられているが、ふっくりとした頬や少し開いたピンク色の唇が、アレクを誘っているようだ。触れたくて、滅茶滅茶に乱したくなって、堪らなくなる。
テルメ山から妃奈を逆召喚し、アレク自身はテオに召喚してもらった。丸太小屋に帰ってから、妃奈はほとんど口をきかなかった。
その澄んだ瞳に、何かを諦めたような静かな表情に、逆にアレクは不安になる。
妃奈、俺の言葉は、きちんとそちに届いたのか? そちが抱えているものがなんなのか、俺にも定かではないが、絶対に、一人で危ないことをしてくれるなよ?
半ば祈る気持ちで、その寝顔を見つめる。
恐らく妃奈は、何かの陰謀に巻き込まれている。それがテオの話したネメア公国の事件と同根らしいことにも気づいている。
ならば、レムス国皇帝としてなすべきことは、妃奈を一刻も早くレムス国から放逐することなのだろう。妃奈一人のために、王宮に不審人物をおびき入れるなど、皇帝としてあるまじき行為だ。
これは、召喚者としての責任感なのか? あるいは負い目か……。
否、そんなものではないことは、自分が一番よく分かっている。
手放したくないのだ。
彼女を手放すくらいなら、皇帝を辞することもやむなしと考えてしまう自分は、たぶん、どうかしている。
だが、テルメ山の洞窟に小さく響いた妃奈の押し殺した嗚咽が、アレクの気持ちを固めさせる。
この娘は、寄る辺ないこの世界で、自分しか頼る者がいないのだ。それを誰よりもよく知っているから、だからこそ、見捨てられない。
アレクは、妃奈の寝顔をのぞき込み、その憂いを帯びて閉じられた瞼に、白桃のような頬に、甘く誘う果実のような唇に、飽きることなく、何度も口づけを落とした。




