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第二十三話 テルメ山

 お湯が使えるというその洞窟は、シャルロ山から二山ほど離れたテルメ山の山腹にあった。妃奈とアレクは、テオに逆召喚してもらい、洞窟の入口に降り立った。

 一面の雪景色が月明かりを反射して、あたりは幻想的な薄闇に包まれていた。

「この奥だ。足下に気をつけよ」

 煌煌と照らす月明かりの他には、アレクが手にしているランタンの小さな灯しかなく、時折聞こえるミミズクの声が、静けさをさらに際だたせる。

「もう少し麓まで下れば賑やかなのだが、人目があると色々面倒だからな」

 妃奈の手をとりながら歩くアレクの声が、洞窟内で反響する。


 ここテルメ山には、この洞窟の他にも泉質の異なった温泉があちらこちらで湧きだしており、そのうちのいくつかは、湯治場(とうじば)として一般に開放されている。といっても、山深い場所にあるので、飛行できる乗騎を持っていなければとてもたどり着けない。だから乗騎を持っていない金持ちは、大枚(たいまい)をはたいて乗騎を雇い湯治場に行く。だから、テルメ山に行くということは、レムス国でのステータスの一つになっていたのだが、アレクの治世になって、帝都に公営の乗騎を用意するようになり、格安で行けるようになった。お陰で、一時期、湯治は庶民の娯楽として大流行した。今ではすっかり定着して、観光地化が進み、テルメ山の麓には宿泊施設なども充実してきていた。


 洞窟を奥に進むと、たちこめた湯気で体中が温かくなってきた。温泉独特の湿った匂いがする。間もなく、ランタンの乏しい灯りに照らされてエメラルド色の光を放つ泉が現れた。

 アレクはランタンの火を分けて逆召喚すると、洞内の各所にある蝋燭に次々と火を灯していった。

 奇怪な形の鍾乳石に縁取られた泉が、小さなしかし数多(あまた)の灯に照らされて浮かび上がる。かなり規模が大きいようで、入り組んだ岩が奥まで続いていた。

「う……わぁ、すごく綺麗」

 妃奈の口から、思わずため息が漏れる。漏らしたため息までが岩肌で反響して、とても大きく聞こえた。妃奈は思わず口に手を当てて首を竦める。

「余は向こうで身体を温めて休んでおるから、そちはゆっくりと湯に浸かるが良い。ここの湯は疲労に効く」

 アレクが向こうと指さした先は、大きな岩で遮られている。身体を温めるということは、岩盤浴でもできるようになっているんだろうか。


 妃奈はアレクに頷くと、岩の陰で着ていた服を脱いで湯衣に身を包んだ。湯衣やタオルは、先ほど王宮からテオ殿下に召喚してもらったものだ。

 泉の縁にしゃがみ、手を浸すと温かくて柔らかな湯が絡みつく。妃奈はしばらく考え込んでから、丁寧に手を濯ぎ、タオルを浸してぎゅっと絞ると、アレクが休んでいる大岩の向こうに歩み寄った。

 アレクは武具を外し、岩肌を背もたれにして休んでいた。

「……あの、アレク?」

 目を閉じていたアレクが、物憂げに妃奈に視線を向ける。

「あ、お休みのところごめんなさい……」

「どうした?」

「あの、その……アレクも、せめて身体を拭けばさっぱりするかと……」

 アレクの背中の傷はかなり深い。お湯に浸かれないのならば、せめて拭いてはどうかと思いついたのだけれど、考えてみれば、誰が拭くの? という問題があることをすっかり忘れていた。普段なら、そんなことはやはり侍女がやるんだろうか。皇帝が、自ら自分の身体を拭くってのは、アリなんだろうか。声を掛けてから気づいたその疑問に、妃奈は思いっきり当惑する。

 アレクはしばらく沈黙してから、妃奈を見上げた。ラピスラズリの瞳の中で蝋燭の火が揺らめく。

「そちが拭いてくれるのか?」

 あ、やっぱ、そうなる? 私しかいないもんね。

「あ、えっと、はい。では、私で良ければ失礼致しますね」

 妃奈はそう返事をすると、アレクの傍に膝をついた。

 お湯で温まったタオルを開き、ぱふっとアレクの顔全体に当てる。額から鼻筋、頬そして顎、首筋とテキパキ拭いていった。次いでタオルの使っていない面に裏返すと、手と指先を丹念に拭いた。

 その時点で、クスリと小さく笑う声がした。

「ずいぶん手慣れているな。OLはこんなことまで得意なのか?」

 妃奈は薄く頬を染めて首を振る。

「いえ、OLは関係ありません。私の祖父のお寺には、保育園が併設されてるんですが、夏休みなどの長い休みにはよく呼びだされて手伝うんです。ほら、小さい子って汗っかきでしょ? だから汗びっしょりになって遊んだ子たちにシャワーを使わせて、終わったら拭いてやるんです。一度に十人くらい拭いたことがありますよ。ふふっ、そうですね。確かに、アレクの言うとおり、私は手慣れているみたいです」

 小さく笑う妃奈に、アレクは、そうか、と言って楽しげに笑った。

「ところで保育園とは……」

「働いている親の代わりに、小さい子どもを預かってお世話をする施設のことです。あ、もしかして、私の話す事って分からない言葉、多いですか?」

「いや、だいたいは想像がつく。が、そちが居た世界は、この世界とかけ離れているからな。もしかしたら余が思っていることとは、全然違っていることがあるやもしれぬ」

「そうですね。本当にかけ離れています。あ、次、シャツを脱いでもらっても良いですか?」

「全部脱ごうか?」

「い、いえ、と、と、とりあえずは上半身のみで……」

 動揺しながら答えると、とりあえずか、と言ってアレクは小さく笑う。

 肩から胸へタオルを滑らせる。筋肉で硬く絞まった肩も厚い胸板も、妃奈の手に慣れなくていちいちびっくりしてしまう。

 小さい子しか拭いたこと無いからなぁ。

 包帯がかなり幅広く巻かれているので、あっという間に上半身は終わってしまう。一旦、冷えてきたタオルを濯いで戻ってきて、そして立ち尽くした。

 え……と、後は……。

「どうした? 残りを拭くがよい」

 アレクの妙に真剣な強い視線を受けて、妃奈はこくりと喉を鳴らし真っ赤になり俯いた。おずおずと近寄り、はい、とアレクにタオルを差し出す。

 しかし、アレクはタオルには手をつけず、妃奈の手首を掴んだ。ぐいっと手を引っ張られ、妃奈はアレクの膝の上に倒れ込む。

 あっ、うわぁ。

 そのまま強く抱きしめられた。今までしたどの抱擁よりも力が強い。息が苦しいくらいだ。

「……アレク?」

 だけど、抱きしめる直前のアレクの表情が、どこか切なげに見えたのがやけに気になった。

 やがて、そっと妃奈を離したアレクは、うってかわって、かつて無いくらい厳しい目つきで妃奈を見つめた。

「妃奈、そちはもう少し余の命令に従順にならねばならぬ。余は今、そちに拭けと言ったのだ。良いか? そちは良く分かっておらぬようだから言っておく。余が逃げよといえば何事をおいても逃げねばならぬし、余がとどまれと言えば、なにが起ころうともとどまらねばならぬ。この世界はそちが居た世界と違う。一瞬の判断の間違いが命を落とすことにもなりかねん。それを、しかと心せよ」

 アレクが大鏡の洞窟でのことを言っているのだということはすぐに分かった。それが、この世界の道理を知らぬ妃奈の為の苦言であることも分かる。だけど、あのとき、アレクを残して逃げるなんてできなかった。逃げて、後悔するくらいなら一緒に残って戦って、その結果、死んだとしても仕方がなかったと……今でも、そう思っている。

「でも、私はアレクを残して逃げるなんて……」

 妃奈の言葉を、アレクの厳しい声が遮る。

「勘違いをするな。そちの為だけに言っているのではない」

「でもっ……」

「足手まといになると言っておるのだ」

 言い掛けた言葉を呑み込んだ妃奈は、ほとりと表情を失った。

 足手まとい?

 確かに、妃奈は兵ではない。剣も使えないし、魔法も使えない。この世界のことを知らない妃奈が、知識の面で役に立てるとも思えない。だけど、そんな風に思われていたとは思わなかった。

 アレクがいらないと言えば、吹き飛んでしまう自分の存在の軽さに、ふと気づいて愕然とする。

 友人でも麾下(きか)でも、ましてや恋人でもないとしたら、私はアレクにとって、いったい何なんだろう。しかも私は、アレクの守るべき民ですらないのだ。

「……私は、アレクにとって何ですか? 単に魔力を補充する為だけの道具ですか?」

 なぜ自分に蓄積しているのか、そんなもの本当に自分の中にあるのかさえ分からない魔力とやらが、妃奈の唯一の存在意義なのだとしたら、それはあまりにもたよりなく、儚いものであるように思えた。

 動揺した瞳で問う妃奈に、アレクは静かな、しかし強い視線を向ける。そして、今までアレクが妃奈に向けたことのない威厳のある皇帝の顔でこう言った。

「そちは異世界からの客人だ。帰る手がかりとなる筈だった鏡は壊れたが、皇帝である余が、なんとしてでも帰る方法は見つけよう。それまでは、この国での滞在を我慢していただきたい」

 客人? 滞在を我慢する?

 妃奈は唇をかむ。

 この温度差は一体なんなんだろう。望むなら妃にしてもよいとまで言ったアレクと、今のアレクが別人に見えた。別に妃になるつもりはなかったけれど……。

 やはり、アレクも疑っているんだろうか。ネメア公国に現れた異国人と妃奈が同郷の者ではないかと。

 あるいは、久しぶりにセレン妃に会って、やはり妃奈のことは邪魔だと思ったんだろうか。

 否、そんなのどっちでもいい……か。

 妃奈は自嘲する。

 理由はどうであれ、妃奈はもうアレクにとってどうでもよい存在になったのだろう。帰り道さえ分かれば、すぐに帰ってもらいたいくらいの、単なる……客人。余所者よそもの

 震える指先を握りしめ、妃奈は口を引き結んだ。

「……よく分かりました。では陛下のおっしゃるとおり、私は今しばらく客人として、ここレムス国に滞在させていただきます」

 妃奈の言葉に、アレクはそっけなく頷くと目を閉じた。まるで妃奈との関係を遮断するかのように。


 エメラルド色のお湯は、温かく、身を浸すとさらりと肌になじんだ。傷ついた指先や肩が温まって、ジンジンする。

 あぁ、痛い。痛いな。

 涙が勝手にあふれ出して、俯いた顔からボタボタと湯に落下する。水面に描かれたいくつもの波紋は、震えて歪んで、そして消えた。

 でも、たぶんこれで良かったんだ。自分でも気づいていたことじゃないの。アレクと私は、住んでいる世界も違えば身分も違う。しかも私は疫病神だ。

 ひとしきり湯に涙の雨を降らせた後、妃奈は意を決したように顔を上げた。


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