第二十話 赤竜 対 紫竜
妃奈は岩戸に体当たりを繰り返していた。叩いても駄目、揺すってもビクともせず、大きな石を叩きつけてみたが、分厚い岩戸にはひび一つ入れられなかった。
涙が勝手にボタボタこぼれ落ちる。
この岩戸一枚を隔てた向こう側には、アレクがいるというのに、凶暴な魔物と対峙しているというのに、どうしてこの戸は開かないの?
何度も体当たりして、肩は内出血だらけになり、爪が割れて指先は血まみれになっていたが、不思議と痛みを感じなかった。
泣くな! 考えろ! 考えろ! 考えろ! 何か方法があるはずだよ!
私は、単なる普通のOLで。何の力もなくて。なのに、いつもいつも不幸ばかりを引き寄せて……大事な人を失っていく。
失う。私は、またしても、失ってしまう。
記憶の深淵からわき上がってきた恐怖は、妃奈の思考を凍りつかせる。
涙が止まらない。私には泣くことしかできない。だって、私は疫病神の痣主だから。 へたへたと座り込む。
その時、心の隅で声がした。
それでいいの? 本当にできることはないの?
いい筈がなかった。弱々しく首を振る。
「助けて。助けてよ。誰かアレクを助けて。アレクが死んじゃうよう……ううっ、くうぅぅ」
そうだ、助けを呼ばなくては。王宮にいる人たちに、アレクの窮状を知らせなくては。連絡をとる手段がほしい。電話があれば。こんなに電話がほしいと思ったことは、未だかつて無かった。自家発電付きの古い電話でも、貸してくれると言うなら、私は喜んで何でもしただろう。
しかし、ここにそんなものがあるはずもない。
でも、それでも助けを呼ばなくては。誰か……、何か……。
――薄紫竜! あの子を呼べないだろうか?
アレクは口笛で旋律を奏でて呼んでいた。口笛は無理だけど、叫ぶことならできそうだ。
同じ旋律を声の限りに叫んでみる。が、それに応える鳴き声は聞こえない。
やっぱり駄目なの? アレクじゃなきゃ駄目なの? それとも口笛じゃないと駄目?
がっくりと膝をつき、声をあげて泣きじゃくる。
「うっ、ううっ。どうしよう。どうしたらいいの? アレクが死んじゃうよう。誰か、助けてよーっ」
そのとき、ふと脳裏にある旋律が浮上した。昨夜、湖に落ちた瞬間に聞こえた悲鳴のような鳴き声だ。あれも、何かの旋律のようだった。
もう一度立ち上がり、その旋律を賢明になぞる。その旋律は童謡『さくらさくら』の出だしに少し似ていた。
間髪入れずに、同じ旋律の鳴き声が返ってきた。期待していた応答に、しかし驚いて空を見上げる。
その時、湖の向こう、僅かに傾き始めた日差しを浴びた山の稜線から、それはゆらりと浮上した。濃い紫色の伸びやかな翼。紫竜だった。
「来たっ。来てくれたっ」
妃奈は思わず駆けだして、手を振る。
「紫竜さんっ、お願いアレクを助けてっ。洞窟に閉じこめられているの。中には魔物がいるの。アレクを助けて、アレクを助けてぇぇぇ」
妃奈の声が届いたのか、紫竜は滑空して洞窟の入口に降り立つと、たったの一撃で岩戸を破壊した。
そのあまりの破壊力に息をのみ、慌てて、岩戸の中に駆け込んだ。
岩戸の近くにアレクがいたらどうしよう。神様っ。
「アレクーっ、アレクぅぅ」
洞窟の奥に傾いた日差しが差し込んで、中にいる巨大な赤竜が、ドシンドシンと何かを踏みつけているのが見えた。
「きゃぁぁぁぁ、アレク、アレクっっ」
巨大な竜がいることなど頭から吹っ飛んだ。気が触れたように駆け寄って、しかし突然横から伸びてきた手に腕を掴まれて、洞窟のくぼみに引き込まれた。
「うわぁぁ」
「妃奈! 危ないではないか。あやつは鋭い鉤爪を持っておるのだぞ。しかし、そちは一体どうやって岩戸を開けたのだ?」
「アレクっ。無事だった。無事だった、アレク。アレクっ。うううっ、うわぁぁぁ」
呆然としているアレクに、泣きながらしがみつく。
「アレクっ、背中が……」
背中から腰にかけてぐっしょりと濡れており、手を回した妃奈の手がヌルリと滑る。
「やつの鉤爪にやられたのだ。案ずるな。出血はひどいが、さほど深手ではない」
しかし、再会の喜びに浸っている時間はなかった。
妃奈が転がり込んだことで、くぼみの存在に気づいたらしい赤竜が振り返る。
鉤爪をガツンとくぼみめがけて振り下ろしてきた。
「きゃぁぁぁ」
その刹那、アレクが何かを赤竜に投げつけて、赤竜の動きが止まった。次いで、きゅるる、とうってかわったかわいい鳴き声がして、赤竜は地面に落ちたそれを探し始めた。それを機に、アレクに手首を強く引っ張られる。
「今の内に逃げるぞっ」
アレクが魔法で何かしたらしいと気づいた時には、拾い上げた何かを咀嚼している赤竜の脇を既にかい潜っていた。
「アレク、何を、したん、ですか?」
走りながら息を弾ませて問うと、
「あれも、やはり竜なのだな。桃の実を召喚してみたのだが」とアレクは答える。
どの竜も桃好きには変わりがないらしい。
妃奈は一瞬脱力して、アレクに気を抜くなと叱られた。
既に黄昏の気配を漂わせている洞窟の出口を目指して疾走する。岩戸の残骸で小山になってしまった洞窟の入口を、もどかしい気持ちで這い上る。桃を食べ終えたらしい赤竜の足音が再び追ってくるのが聞こえて、心臓の音がうるさいくらいに高鳴った。
ようやくの思いで外に出られたときには、疲労困憊して、口もきけぬまま、身体をくの字に曲げたまま肩で荒い息を繰り返す。
「妃奈、大丈夫か?」
はい、と返事をする暇もなく、ガラガラドシンッと、追ってきた赤竜が入口の小山を蹴散らす音がして、慌てて妃奈はアレクに駆け寄った。
時は既に黄昏時。弱い日差しは妃奈達の味方にはなってくれないらしい。もはや赤竜を追い払うだけの光の強さはないようで、瓦礫をかき分けた赤竜が、躊躇することなく外へ出てくるのが見えた。
じゃあ、私たちはどこへ逃げればいいと言うの?
絶望的な気持ちで、背後を気にしながら走り出すと、洞窟から出てきた赤竜の前に紫竜が立ちはだかった。紫竜がたてる甲高い鳴き声と、赤竜の低いうなり声が、遠くの山々に木霊する。
「あれは?」
アレクが振り向いて瞠目する。
「助けに来てくれたの。岩戸も叩き壊してくれたのよ。あれ、色は濃くなっているけどアレクの薄紫竜でしょ? アレクの真似をして呼んだら来てくれたの」
「そちが呼んだのか?」
驚愕した様子のアレクに妃奈は頷いた。
立ちふさがった紫竜と赤竜はお互いに間合いを取りながら、威嚇して唸り合っている。先に攻撃を仕掛けてきたのは赤竜の方だった。鉤爪を紫竜の横面に振り下ろす。鉤爪は咄嗟に後退した紫竜の喉から胸を掠った。
悲鳴のような鳴き声を上げて、次の瞬間、紫竜は口から滝のような水を吹きだして赤竜に浴びせかける。赤竜は水が嫌いなのか、吼えながらぴょんぴょん跳ぶものだから、地響きと共に地面が揺れる。
アレクは妃奈を庇うように背中に腕をまわすと、湖に向かって再び走り出した。
「赤竜は火竜だ。湖の方へ避難しよう」
「そっか、火には水だよね」
妃奈は突然立ち止まりポンと手を打つと、クルリと振り返って紫竜に叫んだ。
「紫竜さんっ、その赤い竜を湖に連れて行こう。連れておいでーっ」
妃奈の声が届いたのか、紫竜がぐるりと振り向く。振り向いた瞬間に、赤竜がすかさず蹴りを入れ、紫竜はドウッと地面に倒れた。
「ああああっ」
「馬鹿者、状況を考えよっ。仕方がない」
アレクは二頭の竜の近くまで駆け寄って、たくさんの桃の実をまき散らした。甘い桃の香りに、二頭の竜は、きゅるきゅる鳴きながら、桃の実を拾い始める。
「紫竜まで食べ始めちゃった……」
呆然と見つめている妃奈のところまで駆け戻ってくると、アレクは言った。
「紫竜を呼べ。そちの言うことなら聞くはずだ」
え? 私の言うことなら聞く? アレクではなく?
「紫竜さんっ、湖へ行って!」
半信半疑で紫竜を呼ぶと、それまで赤竜と争うように桃の実を拾っていた紫竜は、妃奈の声にぴょんと頭を上げ、その大きな翼を広げて空中に舞い上がった。
その様子に、アレクは呆然と呟く。
「なんだ、紫竜に乗せてもらわぬのか?」
「あ、そうだった。乗って行けばすぐでしたね」
既に湖へと飛び立ってしまった竜の背中を見送りながら、妃奈も呆然と呟く。
アレクは、はぁぁ、とため息をついた。
赤竜の方を見ると、たくさん撒いたはずの桃は、もう残り僅かになっている。
「急ぐぞ」
湖に向かって早足で歩き始めたアレクの背中を、妃奈も慌てて追った。
桃を食べ終えた赤竜は、アレクの予想通り彼を追って湖の畔までやってきた。
「余がコンラを逆召喚したことをやつは怒っているのだ。だから、やつは必ず余を追ってくるはずだ」
アレクはそう言った。赤竜はコンラを生贄だと認識しており、それを奪ったアレクに怒っているのだと言う。
「竜の怒りは絶対なのだ。その原因がなくならぬ限り納まらぬ」
「原因って、この場合はアレクになるんじゃないの? それがなくなるまでって……」
妃奈は言葉に詰まる。
「紫竜に掛けるしかないのだろうな。しかし、混色竜と単色竜では、力的に混色の方が、分が悪い。せめて戦う場所を火竜に不利な水場に持ち込めたのは良いが……」
湖の畔では、既に二頭のにらみ合いが始まっていた。鉤爪の応酬が繰り広げられ、互いに組んず解れつしつつ、舞い上がってはどちらかが地面に叩きつけられる。やはり、力では赤竜の方が勝っているらしく、紫竜は押され気味になってきた。やがて地面に倒れて動けなくなった紫竜に赤竜がのしかかった。咄嗟にアレクが再び桃を撒いてみたが、既に興味がないのか赤竜は見向きもしない。
「ああっ、紫竜がぁ」
とどめの一撃の鉤爪を振りかぶった赤竜が、まさに振り下ろそうとした時、赤く染まった夕日の中を鋭く滑空してきた緑の竜が、赤竜を引き倒した。
「テオだ! テオの竜が来てくれた」
アレクの声に、両手で顔を覆っていた妃奈は、慌てて空を降り仰いだ。空中には緑の竜だけでなく、水色の竜も、その大きな翼を広げて滑空している。それぞれの竜にはそれを操っている竜主が乗っているのが見えた。コンラから事情を聞いて、王族が駆けつけてくれたのだろう。
二頭の竜は息を合わせると、暴れる赤竜を持ち上げて湖の真ん中まで運び、そのまま赤竜を湖に投げ入れた。赤竜は鋭い鳴き声をあげながら、しばらくバチャバチャと湖の中でもがいていたが、やがてプクプクと沈んでいった。




