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第十九話 鉤爪と剣

 皇帝アレクシオスは、一人洞窟の中で竜を相手に剣をふるっていた。

 剣が何か硬いものを叩く高く澄んだ音と、何か柔らかいものを切る低く鈍い音が、洞窟に響く。

 妃奈を岩戸の向こう側へ逆召喚するのが精一杯だった。本当は王宮まで送り届けたかったのだが、余裕がなさ過ぎた。ともあれ、彼女を洞窟から出せたことに安堵する。

 ほっとため息をついた、その隙をつくように、竜が鉤爪(かぎづめ)を振り下ろしてくる。

 とっさに横飛びで鉤爪をかわし、宙を掴んだそれを下からすくい上げるように切ってみたが、爪先が少し切れて飛んだ程度で、大したダメージは与えられなかったようだ。

 固すぎて刃が横滑りする。まさに歯が立たぬとはこのことか。

 妃奈が落としていった魔知玉は、畜光力があるのか、未だに淡い光を纏っていた。用心深く竜との距離をはかりながら、アレクは魔知玉を拾い上げる。

 暗闇の中の光は貴重だ。光があるだけで、まだなんとかなるかもしれぬと思える。心の安定感が格段に変わる。

 そして、ふと気づいた。

 自分にとって、妃奈はまさにそんな存在ではなかったか。


 この十年、皇帝としてやるべきことはやったと自負している。だが、やらなければならないことが一先(ひとま)ず片付くと、次に何をしたらいいのか分からなくなった。自分はこの国をどうしたいのか、このまま維持するだけで良いのか、否か、そんなことさえ分からなくなった。

 血を飲み、人の心の闇に触れる度、自らも少しずつ闇に蝕まれていく。そんな心持ちがずっとしていた。心の奥深くに沈殿していく黒い闇は、時折、煙のように立ち上っては、アレクを誘惑する。

 飲みたくもない血を飲み、知りたくもない他人ひとの過去を暴き、恐れ(おのの)かれる孤独な存在でいる必要など、ないではないか。気に入らなければ切り捨てればいい。誰にも文句は言わせない。

 余は皇帝だ。余が整えた国だ。

 ならば、そんな面倒なことをせずとも、余の好きなようにすれば良いではないか。結果として、それが国を荒らす事になろうと、元に戻るだけのこと。何が悪い?


 大きな権力の背後には、恐ろしいほどに暗く、痺れるほどに甘い闇がつきまとっている。


 あの嵐の夜。アレクがわざと間違えた呪文を唱えたあの夜のことだ。

 妃奈は唐突にアレクから飛び出してきて、パンプスとかいう武器にもなる履き物で彼の頭を蹴飛ばした。痛みで星が舞うのを、アレクは生まれて初めて見た。

 ようやく痛みが引いてふと床に目を落とすと、この国では珍しい黒い髪の女性が横たわっていた。滑らかに長い黒髪に華奢な身体。深い紺色の奇妙な服の下には白いシャツ。広めに開けられた襟元からのぞく鎖骨がやけに綺麗なのが印象的だった。恐る恐る近づいて抱き起こした時の、彼女の肌から立ち上る甘美な匂いが、今も尚、アレクの気持ちをざわつかせる。

 あれ以来、彼女の肌の匂いが、張りのある柔らかな声が、しなやかな黒い髪が、内包している摩訶不思議な記憶が、アレクを掴まえて離さない。

 魅了された。まさにこの一語に尽きた。

 好奇心の塊になり、寝ても覚めても妃奈のことばかり考える。何が好きなのか、笑ったらどんな顔か、どうすれば笑ってもらえるか、抱きしめたら嫌われるだろうか、口づけたら……。それはさすがに無理か? いや待てよ? 余が良い皇帝であるならば、それも可能なのではないか。

 嫌われたくない。良い皇帝だと思われたい。闇の誘惑に乗らなかったことに、この時ほど感謝したことはなかった。

 もしかしたら、この気持ちは、世間で聞くところの恋ではないのか。そう気がついた時には、心の中の闇など跡形もなく霧消していた。

 たった一人の気持ちを繋ぎたいが為に、墜ちずに踏みとどまる。そんなこともあるのだと、気づいた。


 惚れた女くらい守らせてくれ……か。

 切迫した状況だったとは言え、そんな甘い言葉を自分が言う場面が来ようとは思いもしなかった。

 一瞬照れくさげに顔を歪めたアレクは、しかし突如顔をしかめる。

 それなのに妃奈のやつめ、嫌だと即答しおって。まったく。あやつは余をなんだと思っておるのか。なっておらぬ。

 無事ここを切り抜けられたら、お仕置きだ。

 アレクは剣を握り直した。


 竜はじりじりと間合いを狭めていた。先ほど鉤爪をよけた時、アレクは洞窟の奥を背にしてしまった。じりじりと奥へ奥へと追いつめられる。

 もっとも、出口が塞がれている今となっては、どちらを背にしていても、行き詰まりな訳なのだが……。

 現段階でアレクの剣は竜に決定的なダメージを与えられていない。それでも、竜は一応、剣を警戒しているようで、強引に間合いを狭める気はないようだった。肩の辺りから触手をいくつも伸ばして、剣を持つ手を封じようと狙ってくる。

 あの鏡の中に封じられていた魔物だ。竜といえど、知能はそうとう高いのだろう。ダメージは極力減らしたいというわけだ。


 コンラは無事だったろうか? 王宮の薬師司くすしつかさに送ったから、すぐにでも治療は受けられたはずだ。致命傷でなければ良いのだが。

 妃奈……そちは一体何者だったのであろうな。そちは何故、召喚を失敗したはずの余の前に現れたのだ?

 妃奈を召喚した間際の、彼女の記憶が消えていたことだけがひどく気になっていた。

 悪い意味で消えていたのでなければ良いのだが……。

 むう、いかんな。やはり、あやつはなっておらぬ。これでは心配で、死ぬに死ねぬではないか。

 繰り出された鉤爪を避ける為に、アレクは後方に飛びのいて、同時に伸ばされた触手を三本まとめて叩き切った。竜が痛みに足を踏みならして咆える。

 洞窟自体を揺り動かす咆哮に、思わず更に後じさると、靴の踵がザスッと後方の岩にぶつかった。

 行き止まりだ。万事休すか。

 兎に角、妃奈だけは無傷で守れた、それだけは良かったと心から思う。できることならば、元の世界に戻る時は十分用心するようにと伝えることくらいできていれば良かったのだが。

 そして……せめて最後に口づけるくらいの時間があれば、尚、良かったのだがな。無粋な竜だ。


 柔らかい触手を切る度に、勢い余って岩肌を噛む剣は、ひどく刃こぼれしていた。切れ味はどんどん悪くなっていく。もう間もなく単なる金属の棒になり果てることだろう。その前に別の剣を召喚すべきか。いや、しかし、あの硬い鱗を貫ける剣などあるのか? 答えは限りなく否だった。そもそも人の手に負える生き物ではないのだ、竜という霊獣は。

 振り下ろされた鉤爪をかいくぐり、竜の脇腹に剣を突き立てる。かなりな手応えで竜の脇腹に沈んだはずの剣は、しかしその皮膚を貫けるだけの威力はなかった。はじき返され、その瞬間にアレクの背中に鉤爪が振り下ろされる。

 ぐはっ

 熱い衝撃が背中に走って、次いで重く鈍い痛みがやってきた。生温かい液体が、背中から脇腹を伝って、衣服をぐっしょりと濡らしていく。

 鉤爪は直撃したわけではない。掠っただけだ。なのにこのダメージか。

 痛みで目がかすむ。

 アレクは倒れ込んだまま、手近にあった壁のくぼみに転がりこんで、身を隠した。既に剣も魔知玉も手元にない。絶体絶命だ。

 人間にとっては広々とした洞窟も、竜にとっては狭いらしく、機動力があることだけがアレクの強みだったのだが、ここまで手負いになってしまえば、アレクに有利なものは何一つ無い。小ささを生かして隠れることくらいが精一杯だ。

 竜がアレクを探している気配がする。ドスンドスンと近づいてくる足音がして、しかし、その足音はアレクが隠れているくぼみを通り過ぎた。かすむ目で足音がする方を見てみると、その先で魔知玉がぼんやりと光っているのが見えた。

 魔知玉が引きつけているらしい。

 しかし、剣もない手負いのアレクには、竜の背後をとったところで為す術はなく、ただ魔知玉がドカンドカンと踏みつぶされている鈍い音だけを、絶望的な気持ちで聞いていた。


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