第十八話 紅蓮の竜
魔知玉の光に照らされた途端、わだかまっていた闇はぞろりと蠢いた。喘鳴の混ざった呼吸音が洞窟の闇に木霊する。
「コンラ! 離れよっ。それは手に負えぬ!」
そうアレクが叫んだのと、闇の奥から、鞭のようにしなった触手がコンラの足首を捉えたのが、ほぼ同時だった。
ドウッとコンラが引き倒された音と、奥の闇が低く猛々しく唸る声が、洞窟内の空気を揺るがせた。次いで、何か硬いものが砕かれた鈍い音とコンラの絶叫が洞の中を満たす。
妃奈は悲鳴を上げて立ちすくんだ。
「コンラ!」
慌てて駆け寄り、その腕をつかむアレクを、コンラは絶望的な瞳で見上げる。
「陛……下、逃げて……ください。俺はもう……駄目です。脚が……」
「コンラっ、許せ。おまえを呼び出すべきではなかった。すまぬ」
すぐさまアレクが呪文を唱えると、コンラは絶叫とともに消失した。
コンラが消えたことに気づいた魔物は、激怒して咆哮を繰り返す。その声は洞窟自体を揺るがした。次いで、入口の方向から岩を転がすような轟音が響いて、僅かに届いていた外界の光が遮断され、辺りは闇に沈んだ。
アレクが持っていた筈の魔知玉は、既に手にないのか、完璧な闇に閉ざされる。
息を詰め、闇の中の僅かな光を探して目を凝らしていた妃奈の耳にアレクの声が聞こえた。
「妃奈、余の傍に来れるか? 来い。逃がしてやる」
冷静な力強い声だ。
妃奈は、咄嗟に声のする方に駆け寄ろうとして手を伸ばし、しかし次の瞬間、ふと立ち止まった。
アレクは私を逆召喚するつもりに違いない。コンラのように。でも、アレクは? アレクはどうするの? 自分自身を逆召喚できるの? そんなことができるんだろうか?
「アレクは? アレクはどうするんですか?」
「妃奈、こやつは強大な力をもつ魔物なのだ。とても人間の手に負えるやつではない。王宮に戻ったら、この洞窟を封印して、何人も近寄らぬようせよとリュシオンに伝えてくれ。そちを国に返す約束は、余には果たせそうにないが、リュシオンに助力を願え。テオなら、何らかの手だてを見つけられるやもしれぬ」
妃奈は息をのんだ。
アレクは死ぬ気だ。
私だ。私が不幸を引き込んだ。しかし、それは大幸運の後の筈ではなかったの?
そしてふと気づく。
既に大幸運は起こっていたのだとしたら?
アレクは言っていたじゃない。大洪水を防げたのは私のお陰だったと……僥倖だったのだと。
どうして気づかなかったの?
足先から恐怖が這い上がってくるようだ。ガクガクと膝が震えた。
「……ア、アレク、嫌です。アレクを一人残してなんか行けない。絶対に嫌ですから」
自分はまたしても、大事な人を不幸のどん底に陥れようとしているのかもしれない。大事な人を失う恐怖に絡め取られて、思考が空回りする。しかし、こみ上げてくる涙を一旦解放すると、逆に霧が晴れるように突然思考は働きだした。
ここで死ぬべきなのはアレクじゃない。アレクは生きなきゃいけない人だ。この国の為に、この国の民の為に、そして、私自身の為に……。
どうしたらいい? 私に何ができる? 私は何をしたらいい?
目まぐるしく考えを巡らせていると、焦った様子のアレクの声が聞こえた。
「妃奈、聞き分けのないことを言うでないっ。一人でも多くの民を幸せにする、その為に余は皇帝になったのだ。余は魔力も弱くふがいない皇帝で、思うようには民を守ることができなかったかもしれぬ。だから最期に、そちくらい、惚れた女の一人くらい、余に守らせてくれ」
そうアレクが言った瞬間、剣が何かを切った音と勢い余って刃先が岩肌を噛んだ音、そして、魔物の悲鳴に似た吼え声とが、ほぼ同時に響いた。次いで、何か巨大なものが岩に体当たりしているようなドシンドシンという音が響く。
「やつが完全に覚醒したらひとたまりもない。今のうちなら逃がせる。早くっ、妃奈っ」
かつてなら、ぼうっと惚けそうなそんなアレクの言葉も、今は欲しくなかった。今欲しいのは、大事な人の、アレクの未来だけだ。
「嫌です。絶対に、私はアレクを残して逃げませんからっ」
灯り、灯りがほしい。
妃奈は這いつくばって地面を手で探る。
目は闇に慣れてきた筈なのに、闇が深くてほとんど状況が分からない。魔知玉。あれをアレクに近づければ灯りが手に入る筈だ。
灯りがあれば、何か、一緒に逃げる方法が見つかるかもしれない。
手探りで辺りを這い回っていると、丸いツルリとした手触りが指先に触れた。
あ、あった。
ところが、妃奈がその玉を拾い上げた瞬間、玉は激しく光り輝いた。
え? ええっ?
途端に、岩の隙間から突き出した魔物の頭と、それが繰り出す鋭い鉤爪と剣を交わらせているアレクの姿が、闇の中にくっきりと浮かび上がる。
赤い……紅の鱗を持った竜。
口から覗く舌は血のように赤く、口から吐き出す煙は熱気を帯びていて、のどがヒリヒリするような刺激臭がした。しかし、コンラの言った通り光に弱いのか、魔知玉の強い光を浴びて、一瞬、竜はすべての動きを止めた。
「妃奈?」
驚いた様子で振り向くアレクに妃奈は叫ぶ。
「アレクっ、逃げましょう。早くっ」
頷いて走り出すアレクを確認して、妃奈もまた走り出した。
出口までたどり着いたものの、岩戸は固く閉じている。すぐに追いついたアレクが呪文を唱えるが、岩戸は開く気配がなかった。そうこうしている内に、竜は洞の割れ目から脱出したらしい。地響きとともに足音が近づいてくる。
「……妃奈」
優しく名を呼び手を差し出すアレクに、妃奈は後じさる。
「いや、嫌です。私だけ逃げるなんてイヤ」
「……分かった。では、逃げる時も死ぬ時も共にしよう。だから、その前にできる限りのことをしたい。そちに触れて呪文を唱えさせてもらえないか? もしかしたら岩戸が開くやもしれぬ」
「でも……」
妃奈は躊躇いながら、それでも用心深く距離をとった。
「妃奈、何故そちに触れると魔力が回復するのか、余はずっと疑問だった。だが、今、その理由が分かった。その魔知玉が示しておるとおりだ。そちには強大な魔力が蓄積しておるのだ。何故かは分からぬが……」
魔力が蓄積? そんな……何故? 魔法も使えない私に何故?
すぐ近くで竜が吼える声が轟いた。
「妃奈っ、今、躊躇っている時間はないのだっ、来いっ!」
アレクは妃奈の腕を掴んで強く抱きしめると、呪文を唱えた。
妃奈の目の前が暗転して、巨大な渦に巻き込まれる気配がした。
「アレクっ!」
これは逆召喚の魔法だっ。
妃奈が気づいて咄嗟にアレクの腕を掴んだ瞬間、妃奈は自分が岩戸の外側に出ていることに気がついた。
岩戸は固く閉じたままだ。
渾身の力で岩戸を引いてみたが一ミリたりとも動かない。何度も体当たりをしてみたが、岩戸はびくともしなかった。中から、竜が吼える声と、剣が岩肌を噛む高い音が微かに響いてくる。
「アレクっ! アレクーっ いやだぁ! アレクぅぅ」
妃奈の悲鳴だけが、遠くの峰々に、高く木霊した。




